人の四季

 まだまだ昼は暑いが、昨晩はマンションの庭で秋の虫の声がした。
 寝床に寝っ転がって、ただ虫の声を聞いているというのもいいものである。


 夏の後ろからは、ゆっくりとだが、確実に秋の足音が近づいている。


 ――なーんて書くと、いかにも随筆風だ。照れてしまう。
 今、真っ赤になりながら、これを書いております。


 人の一生を季節にたとえると、今はどのあたりだろうか。


 萌え出ずる春の初めに、故意か偶然か、萌え出ずった父母によってこの世に生を受け、思春期なんていう春を思って悶え苦しむ時期を過ぎて、夏は二十台か。


 晩夏から初秋は三十台で、秋は中年、冬は老年、というのは、まあ、これまたいささか紋切り型だが、割に合っていそうである。


 秋になると、木の葉も色が変わり、やがては散っていくのも、そぞろ哀れを催しますね。中には、夏の頃からだいぶ散っている人もいますが。


 そういう年齢による決めつけはいかん! と考える方もいらっしゃるだろう。


 もちろん、決めつけが気に入らなければ、従わなければいいだけのことで、秋にかき氷を食べるなり、冬の日本海の荒波で唇を紫色にしてサーフィンするなり、勝手にやればよい。骨までかじかもうと、岩にたたきつけられようと、本人の好きずきである。


 わたしはというと、秋はだらだら過ごして、ジジイの冬になったら、鍋で一杯、酔い心地なんていうのがいい。


 このやる気のなさ。わたしの辞書に「活動的」という言葉はない。
 これからも、ユダヤ人大富豪の教え、とか、ナントカ父さん、とか、成功のための五百八十三の法則、なんていう類の話とは無縁でいるんだろう。


 冬の鍋でふわーっといい心持ちにヨッパラって、何となく死んでた、なんていうのが理想だ。
 まあ、なかなかそううまい具合にはいかないものらしいが。

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「今日の嘘八百」


嘘五百二十 泉重千代さんは人生の半分が冬だった。