昨日に続いて、忠臣蔵の話。例によって、さしたる知識もなく、思いつきで書く。
「忠臣蔵」には「忠」の字がついているように、芝居のほうでは「忠義」のゆえ、ということになっているけれども、現実の元禄赤穂事件はどうだったのだろうか。
元禄赤穂事件については、わたしもそうだが、芝居や映画、小説などにだいぶ毒されているところがあるかもしれない。
浅野内匠頭については、刃傷沙汰云々は置いておいても、あまりいい評判はなかったようだ。
遺臣が、浅野内匠頭との個人的情誼から仇討ちをしたとは考えにくい。
現代でたとえるなら、自分を可愛がってくれた部長が左遷され、追い落とした新任部長に対して反抗的になる、なんていう感覚。
んー、元禄赤穂事件については、どうもそうではない気がする。
仮に忠義の感覚があったとしても、浅野内匠頭個人に対するものではなかったんではないか。
「考えにくい」とか、「気がする」とか、「ではないか」とか、自分で書いていて、あやふやでコマッタものだが。
昨日も書いたけれども、浅野家のお取りつぶしが決まって、家中は籠城派と開城派に分かれた。あるいは、様子見派もだいぶいたかもしれない。
籠城派が浅野家への忠義から籠城を主張したのかというと、どっちかというと、意地のほうが大きかったんじゃないか、というのが、わたしの霊感。
卑俗な例でいうと、「顔に泥、塗りやがって」に似た感覚。
あるいは、あまり現代風の浅薄な感覚で捉えてはいけないだろうが、一種の“見栄”のようなものもあったかもしれない。
武士にとって、見栄、体面というのは大きかったようだから。
例によって、証拠はない。
それに、わたしには忠義の心で籠城した経験がないから、よくわからんのだ。
同じく霊感なのだが(我ながらいい加減だ、ホント)、吉良邸への討ち入りだって、本人達にしてみれば忠義より意地のほうが大きかったのではないか。
主君の仇を討ったから、形のうえでは忠義ということになるし、世間はいい加減だから(今、こうやっていい加減なことを書いているわたしが言うのも何だが)、そう囃し立てたのかもしれないが。
赤穂藩の大多数の藩士は討ち入りに参加せず、他家への仕官の道を探ったわけで、その頃の武士はそう忠義一本槍に凝り固まっていたわけではないだろう。
忠義はあるいは理想ではあったのかもしれないが、そんな観念的なものよりは、感情、情念のからむ意地のほうが骨身にしみそうな気がする。少なくとも、現代で生まれ育ったわたしには。
ま、結局、本当のところはわからない。
書いてみて、我ながらぐじゃぐじゃだ。きちんとした論拠のないままに書き散らすと、こういうことになる。
泥沼の上に家を建てようとするようなものである。
本当はもっとくだらないことを書くつもりだったのだが。それは明日、書く。
まとまらず、スミマセン。わたしも錯乱している。刃傷したくなってきた。どこかに吉良さんはいないか。
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「今日の嘘八百」
嘘五百二十二 最近の研究では、松の廊下の浅野内匠頭は、礼服の引きずっている裾が長すぎ、コケた先にたまたま吉良上野介が立っていたらしい。