昨日、一昨日と、いわゆる忠臣蔵、元禄赤穂事件について書いた。
前フリのつもりだったのだが、思わぬ長さになってしまい、しかもまとまりがつかなかった。
反省しております。
嘘だけど。
ま、しかし、得るものがないでもなかった。
わたし程度の歴史の知識で、当時の武士の性向だの心理だのを考えようとすると、時代劇や歴史小説、時代小説、講釈の類を元にするほか、手だてはほとんどない。
ついつい、そういうもので培われた感覚を、実際そうだったかのように思い込んでしまっている。
そのことが実感できたのは、収穫と言えば収穫だ。
でもって、時代劇や歴史小説、時代小説、講釈の類だって、当時の武士の性根や心理をそのままに伝えているかというと、随分、怪しいだろう。
少し前に引用した柳家小三治の言葉(id:yinamoto:20070809)。
(人が)「落語を聞くと江戸時代がわかる!」なんて言うんです。わかるワケがないでしょう?(客、笑) やっているやつがわからないんですから。ただまあ、こうだったらいいのになあ、とか、そういうことはどうしてもネ、考えますが。そんなものでございましょう。
(「落語名人会35 柳家小三治11」より「粗忽の釘」。ソニーミュージックエンタテインメント、ASIN:B00005G6XG)
時代劇や歴史小説、時代小説、講釈の類も、多分に、あるいは相当に、作り手や読者の「こうだったらいいのになあ」とか、「こうだったんではないか」という想像を交えているはずで、あまり信用できるものではない。
言ってみれば、SFと同じく、ファンタジーだ。
もちろん、ファンタジーはファンタジーとして楽しめばいい。
ただ、SFを実際のことと捉える人は矢追純一を除いては、ほとんどいないけれども、時代劇や小説のほうは、うっかり実際のことのように勘違いしてしまう。
と、ここまでが、長ーいマクラ。ここから先はファンタジーだ。
立川談志がある噺で語っていたのだが、赤穂藩は五万石。家臣が三百人くらいいたとすると、そのうち四十七人が討ち入りをやって、残りは逃げた。
でもって、討ち入った四十七人を語るのが講釈で、逃げた二百何十人を語るのが落語だという。
談志らしい、わかりやすい整理の仕方だと思う。
まあ、逃げたと表現するのは楽しいけれども、ちょっと可哀想な気もする。
そもそも討ち入りの計画なんか知らなかった元・家臣も多いだろうし。
以下、もっぱら、Wikipediaへの書き込みを元に書く。
討ち入りしなかったほうの人々だが、討ち入りが成功した後、随分、蔑まれた、とある。「義挙」に参加しなかった、ということだろう。これも、気の毒な話だ。
では、もし討ち入りが失敗したらどうなったのか。
四十七士は暴れるだけ暴れたものの吉良は見つからなかった、とか、全員非力で裏門を打ち破れず諦めて帰った、塀に梯子をかけているところであっという間にバレた、とか。
あるいは、吉良側がやたらと強くて、四十七士がこてんぱんにやっつけられる、というのも楽しい。
清水一学、強えのなんの、刀をとっかえひっかえ、無法の輩どもを斬るわ斬るわ、あっという間に形勢逆転して、大石内蔵助は炭小屋に隠れる。
吉良家臣が前を通ると、中から何か声がする。調べてみると、曲者がふたり飛び出してきた。奥には大石内蔵助が隠れていた。
駆けつけた吉良上野介、震える内蔵助の肩をとらまえて、「大石殿でござるな」。
不逞の輩の首魁の首を刎ねて、天っ晴れ、返り討ちに成功するという、痛快な一席。違うか。
まあ、そうすると、討ち入りに参加しなかった元・家臣達は、褒められるとまではいかないまでも、後世まで蔑まれることはなかったろう。
他家へ仕官できた人も、それなりにいたかもしれない。
赤穂浪士の討ち入りが成功して哀れなのは、吉良家臣も同じで、こっちのほうこそ、とんだとばっちりだろう。
討ち入り後、吉良家はお取りつぶし。
その後の家臣がどうなったかはよくわからないが(奮戦した家臣だけは上杉家が召し抱えたとか)、世間は赤穂浪士側に肩入れしている分、他家への仕官も不利だったのではないか。
十年、二十年経って、討ち入りに参加しなかった元・浅野家臣と、元・吉良家臣が、尾羽打ち枯らして、たまたま出会う、なんて話はどうだろう。
哀れと無常感を誘って、複雑微妙な、苦い味わいもあり、なかなかいいのではないか。
忠臣蔵についてはいろんなことが書かれているから、すでにそういう小説もあるのかもしれないが。
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「今日の嘘八百」
嘘五百二十三 元禄赤穂事件より三百年、兵庫県赤穂市出身者と愛知県吉良町出身者が結婚した例は一件もないという。ちょっとした現代版・ロミオとジュリエット。