伝統のつながり方

 前のブログで、鼓や三味線で盛り上げる萬歳(漫才ではない)の形式はボーイズ物、その最若手(もう四十代だけど)であるポカスカジャンに受け継がれているのではないか、というようなことを書いた。
 そういう芸の伝統のつながりというのは興味深いもので、広い意味での形式というのは表面的なスタイルを変えつつも受け継がれていくように思う。
 例えば、仮に萬歳が形を変えつつもポカスカジャンに受け継がれているとする。ああいうボーイズ物というか、楽器と掛け合い的なしゃべりでとっかえひっかえネタを見せていくという形式は、欧米には見当たらないのではないか。まあ、おれには映画程度の知識範囲しかないけれども、見た覚えがない。スティーブ・マーチンの「サボテン・ブラザーズ」でギターを持った3人が客を前にコミカルに唱うというシーンがあったが、歌が主であって、萬歳やボーイズ物とは随分と違ったものだったように記憶している。
 落語や講釈のようなストーリーを語る一人芸もそうで、欧米にはほとんど存在しないのではないか。スタンダップ・コメディアンというのはいるけれども(映画に専念する前のエディ・マーフィーとか)、あれはストーリーを語るというのとは違うだろう。もっとも、中国には昔から講釈があり、三国志演義水滸伝は中国の講釈が元ネタになっているそうだ。スタイルを変えながらの伝統のつながりということでは、無声映画時代の弁士というのもおそらく一人芸の流れであって、欧米には弁士はおらず、日本独特の発展をした芸であったらしい。
 現代的な展開がうまく行っていないという展では、浄瑠璃の系統がある。歌と語りを担う者(太夫)と三味線などの楽器の組み合わせ。元は平家琵琶だろうか。もちろん、義太夫や清元は現代でも続いているけれども、現代化しているわけではない。浪曲は興行として苦しそうだ(同じ視点で言うと、一人芸の講釈も苦しい)。
 伝統というのは師匠から弟子へ、あるいは先の世代から後の世代へとスタイルが受け継がれるのが理解しやすい形態だけれども、もっと曖昧に、その根幹にある構造がスタイルを変えながらも伝わるというケースもあるように思う。例えば、楽器と語りで時折メロディをつけながら映像のナレーションをやる、なんていう人が出てきたら、一種、浄瑠璃浪曲の現代化と言えないこともない。誰かやらないか。しょうがねえ、おれがやるか。ベベン、ベン、ベベン、ベンベン。ひと月で飢え死にするな。