講談・阿部一族

 まずは、「阿部一族」冒頭である。


阿部一族の内「忠利の病」


 寛永十八年だから、1641年である。大坂夏の陣から16年、島原の乱から3年、武家社会にはまだだいぶ殺伐とした空気が残っていたかもしれない。


 病を得た忠利は死に、十八人が殉死した。藩主の座は嫡子の光尚(みつひさ。録音では間違って、みつなお、と読んでしまった)が継いだ。


 鴎外によれば、当時の殉死というのは、陣中のお供と同じで、三途の川のお供をするのだから、原則として生前に殿様の許しを取っておかなければならなかったという。


 ここにひとり、阿部弥一右衛門通信という武士が登場する。


阿部一族の内「弥一右衛門殉死の願い」


 この後、前述の通り、忠利の後を追って、十八人が殉死する。
 忠利の領地・熊本はその話で持ちきりだが、その分、殉死しなかった弥一右衛門(許しがなくて、できなかったのだが)には侮蔑の目が向けられる。


阿部一族の内「弥一右衛門切腹」


 この後、阿部一族は悲劇に向かって進んでいく。


 弥一右衛門は勝手に殉死したということで、嫡子・権兵衛の知行は減らされた。阿部家に対する世間の目には、相変わらず侮蔑が混じっている。


 権兵衛は忠利の一周忌にちょっとした騒動を起こし、新しい藩主・光尚の不興を買って縛り首になる。


 阿部一族は集まり、評議する。
 武士に対して切腹ならともかく縛り首とは。また、縛り首になった者の一族が今後、家中で尋常な扱いを受けるとは思われず、真っ当に奉公できるものでもない。


 評議は一決する。


阿部一族の内「山崎屋敷立て籠もり」


 阿部一族の立て籠もる山崎の屋敷の隣には、柄本(つかもと。録音では、えもと、と読んでしまった)又七郎という武士が住んでおり、阿部家とは平生親しく付き合っていた。


 この男、武辺の者で、討手の人数には加えられていなかったが、討ち入りのときは、槍を手に自分の屋敷と阿部の屋敷の竹垣を越えて、乗り込むことを決意する。


 そして、迎えた討ち入りの日――。


阿部一族の内「又七郎抜け駆け」


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「今日の嘘八百」


嘘五百三十九 次回は「舞姫」を世話物でやってみたいと思っております。