外の論理と内輪の感覚

 教師は、少なくともわたしの中学時代は、いじめについて、大した役割を果たさなかったと思う。


 別に先生達が怠慢だったわけではなくて、Aさんの自殺未遂の話のように、何とかしようとは思っていたのだろう。
 しかし、先生の言うことに、わたしは建前を感じた。
 あるいは、ガキどもは、いじめに関するようなあれこれを通じて、建前と本音というものを知っていくのだろうか。


 まあ、建前というと語弊があるか。先生は別におざなりだったわけではなかろう。


 ただ、先生のお説教というのは、職員室に象徴される「外とつながった世界」、「公」のようなところから来る話だ。


 ガキにはガキで「内輪」の別の世界がある。
 そこに「いじめは犯罪です。やめましょう」という類の話を持ち込まれても、水と油のようなもので、溶け込まない。
 わたしのいた学校では、そういう優等生的な発言をする生徒は、むしろ、いじめられた記憶がある。


 最近、いじめや自殺を防ぐために、学校で規範意識を教え込む、という主張が出てきている。
 全くの無駄でもなかろうが、さほどの効果があるとも思えない。
 社会がそうであるように、ガキの世界も本音と建て前、内と外の感覚があり、複雑なできあがりになっているからだ。
 そして、ガキはちゃんとその2つを使い分けて生きている。


 いじめに対する厳罰化、という提案もあるようだけれども、慎重に考えるべきだろう。
 仕返しが行われる場合もあるし、ガキどもの間で「密告による裏切り」として扱われ、いじめられる側がいっそう、ひどい目に遭うことも考えられる。


 それに、Aさんのケースのような集団によるいじめ、わたしがやったような尻馬に乗る形のいじめには、罰の効果はなさそうだ。


 具体案はなく、抽象的でコムズカしい言い方になるのだけれども、教師〜学校〜教育委員会〜行政〜法律といった「外の世界」と、ガキどもの「内の世界」をうまくつなげる仕組みを作らなければ、日本の学校のいじめの問題は解決しないんじゃないか。