今、思えば

 今、思えば、わたしはあまり大したいじめを受けたわけでもないのだが、当時はひどく悩んだ記憶がある。


 少し前の文科省への自殺予告文に、いじめたやつらや、父兄に、自分は自殺するから、お前達も自殺しろ、というような文章があった。
 ああいう心理はわかる。わたしも、自分が死ねば、いじめているやつ(と、そのまわりで尻馬に乗るやつら)は思い知るだろう、と考えたことがある。


 しかし、Aさんに対するわたしの感じ方から思うに、いじめた側は、いじめられた側が思いつめて苦しんでいるほどには、大して思い知りもしない。自分が死んだとて、生徒達には一時の衝撃はあっても、復讐にはならないだろう。


 次にいじめられる側の感じ方だが、いじめられた直接の行為(殴る、蹴る、何かを隠す等々)よりも、まわりの視線や、自分が今いじめられているという“事実”、屈辱感が、いっそう苦しい。同情されるのもまた、みじめだ。少なくとも、わたしはそうだった。


 わたしの場合は、いじめられているということを、親にも教師にも相談できなかった。相談することが恥ずかしく、屈辱感を増すからだ。これは、信頼とは別の話である。