ハングリー精神

 我ながらハングリー精神に欠けるなあ、と思う。


 人を蹴落としてのし上がりたい、という意欲に欠けるのである。


 いや、人を蹴落とすのは大好きだ。
 もう、蹴落とせる限り、蹴落としたい。ゲラゲラ笑いながら蹴落としたい。
 しかし、のし上がりたいと思わないのだ。蹴落としてばかりである。


 ミュージシャンは誰だったか忘れたが、少し前に「Hungy, So Angry」という曲があった。
 歌詞は知らないが、たぶん、腹が減ると怒りっぽくなりますね、というみみっちい話ではなくて、貧困について歌った政治的な歌なのだろう。


 しかし、怒るとまた腹が減るのも確かであり、そうすると、わたしの場合、コンビニでおにぎりでも買って食ってしまうのである。
 でもって、そこで問題は解決してしまう。


 何が言いたいのか、自分でもさっぱりわからないが、マア、イイデショウ。


 今の日本社会では、一般に、ハングリー精神はそんなには好まれないようにも思う。


 大半の企業では、野心、大望は許容されても、ハングリー精神は好まれないだろう。
 ハングリー精神は、反面、手前勝手な印象があるからかもしれない。組織ごとズタズタにされてはたまらない。


 例えば、会社の隣の席のやつがやたらとハングリー精神に燃えていたら、嫌じゃないですか?


 目がギラギラとして、同僚の隙をいつも狙っている。あわよくば、出し抜こうと思っている。ちょっとでも隙を見せようものなら、人の皿からカラアゲをくすねる――って、それは文字通り、ハングリーなだけか。


 今の日本では、例えば、終戦後に比べれば、ハングリー精神の持ち主はだいぶ少ないだろう。
 あれこれ問題はあるにせよ、全般的には、まあまあうまくきたということだと思う。


 一方で、プロ・スポーツの世界ではハングリー精神がもてはやされる。
 それはハングリーであることがコーフン的争いに至りやすいからで、まあ、そこらへん、ローマ時代の剣闘士と変わらない。
 見ているこちら側は、コロッセオで楽しんでいるローマ市民のようなものである。
 知らないけれども、ローマ市民にもあまりハングリー精神は求められなかったのではないか。


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「今日の嘘八百」


嘘二百四十三 ジャン・バルジャンの弟は、貧乏だが、とても真面目な働き者だった。名をガン・バルジャンといった。