決死の覚悟にて候

 今日は、実は決死の覚悟で書いている。なぜ決死の覚悟なのかは、おいおい説明する。


 藪から棒に何だが、文化というのは、別に高尚なものばかりではない。お酌も文化だし、ほとんど廃れたろうけど、夜這いだって文化だし、土下座だって文化だし、とりあえず謝っておくというのも文化である。


 掛け軸だの能・狂言だの小笠原流礼法だのも、もちろん、文化ではあるけれども、文化のほんの一部、スポットライトをあてやすいものに過ぎない。
 何も知らずに日本に来た外国人が、壁に掛け軸をぶら下げれば、日本の文化を十分に理解したことになるかというと、もちろん、違うのだ。


 わたしは大学時代、文化人類学というコースに籍を置いていた。
 同級生のyagianも書いているけれども(id:yagian:20060328)、文化人類学では文化相対主義ということを刷り込まれる。


 文化相対主義というのは、「文化人類学入門」(祖父江孝男著、中公文庫、ISBN:4121905601)で探してみると、こう書いてあった。


すべての文化はそれぞれ固有の価値をもっているのであるから、これを外部から評価・批判することはできない。それぞれにその慣習をそのまま尊重すべきである。


 急にンなこと言われても、何のことやら困りますよねえ。わたしも困ってます。


 ここが「決死の覚悟」たるゆえんで、まあ、白状すると、学生時代、ぜーんぜん勉強しなかったのだ。ロクに勉強しなかったことを書くのは、大変である。


 それでも、わたしなりにやわらかく書き直すと、


世界にはいろいろな人々がおって、いろんな考え方や感じ方、行動をする。それぞれに長い時間をかけてできあがったものだし、それなりの理由がそれぞれにある。よそで生まれ育った人間が、そう簡単にいいの悪いの、と決めつけてはいけない。ああ、それぞれ。はあ、それぞれ。


 といったところだろうか。