んー、漬け物を例にしてみよう。
漬け物をうまい、と感じるとする。まわりの人に訊いても、そうだ。
おお、漬け物は素晴らしい! というわけで、外国人に食わせてみたら、「何だ、これは!」と吐き捨てられた。
さて、ここで「こんなにうまいものを吐き捨てる外国人は間違っている!」とするのが、文化絶対主義(漬け物絶対主義)の立場。
「そうか。この味はわからんのか。ま、初めて食べるんだしな。仕方がない」とするのが、文化相対主義の立場(漬け物相対主義)の立場。
で、相手が「これはうまいぞ!」と、ブルーチーズを持ってきた。
あまりの臭さにおえええ、となり、「こんな臭いものを食うやつらは間違っている!」とするのが、文化絶対主義(反ブルーチーズ絶対主義)の立場。
「臭くてたまらんが、そのうち、うまく感じるようになるかもしれん。少なくとも、こいつらがうまいうまいと食っておるのは演技ではなかろう」とするのが、文化相対主義(反ブルーチーズ相対主義)の立場。
こんなことを長々と書いてきたのには、わけがある。
愛国心とか、日本の文化、伝統を尊重する心、を学校で教えるのなら、一方で、文化相対主義も教えてほしい、と思う。バカ学生ではあったものの、珍しく真面目にそう考えている。
いや、愛国心、日本の文化、伝統を尊重する心を教えなくたって、文化相対主義は教えたほうがいいと思う。
文化相対主義を教えてどんないいことがあるかというと、違う文化をルーツにする人の事情を、多少なりとも慮れるようになる。
少なくとも、自分たちは絶対に正しい、あいつらは絶対に間違っている、と、頭っから決めつけることは減るだろう。
これから、日本にルーツを持たないで日本国籍を取得する人は増える。国籍を取得しないで日本で働く人も増える。
文化相対主義を教える意味は大きくなっていくと思う。自分の考え方、感じ方、行動について、二割程度でも疑惑のマナザシを持っていることは、むしろ、健全なのではないか。
なお、先の引用文のうち、特に最後、「それぞれにその慣習をそのまま尊重すべきである」というところには、異論のある文化人類学者も多いようだ。
漬け物を食わせてみてもいいではないか、ブルーチーズを食ってみてもいいではないか、ずーっとお互い、食わせ合っているうちに、好みも変わっていくかもしれない、という考え方も、あるだろう。
漬け物はうまい。しかし、全ての人がそう感じるわけではない、とまあ、簡単にいえば、そういう話デシタ。
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「今日の嘘八百」
嘘百八 ブルーチーズとクサヤと納豆を瓶に入れて、三日間、砂に埋めておくと、世界最強の細菌兵器を作れる。