きれいであること

 こういうものがある。


シブヤ大学


 考え方は、いわゆる「生涯教育」(生涯、教育されるというのは、ナマコのわたしにとっては恐るべきことである)をベースに、ボランティアによる地域密着型のコミュニティづくり、街づくりまで視野に入れたい、と、そういうことらしい。
 講師には、渋谷でユニークな試みをしている人々を呼ぶようだ。また、生徒が先生になったり、先生が生徒になったりもするという。


シブヤ大学とは


 パチパチパチと拍手したいわけではなくて、実はこの手の(よく知らぬので、テキトーにいっしょくたにします)試みを見かけると、いつも違和感を覚える。ほとんど反感と言ってもいいくらいだ。


 わたしが斜に構えたヨコシマな人間だからかな、と思っていたのだが、それだけではないようだ。


 yagianが、寺田寅彦のこんな随筆を引用していた(id:yagian:20060909)。
 ナマコなので原典にはあたらず、ヨコシマなのでコピー&ペーストで済ますことにする。


 中庭の籐椅子に寝て夕ばえの空にかがやく向日葵の花を見る。勢いよく咲き盛る花のかたわらにはもうしなびかかってまっ黒な大きな芯の周囲に干からびた花弁をわずかにとどめたのがある。……そういう不ぞろいなものを引っくるめたすべてが生きたリアルな向日葵の姿である。しおれた花、虫ばみ枯れかかった葉を故意にあさはなか了簡で除いて写した向日葵の絵は到底リアルな向日葵の絵ではあり得ない。


 精巧をきわめたガラス細工の花と真実の花との本質的な相違はこういう点にある。……


 物理学上の文献の中でも浅薄な理論物理学者の理論的論文ほど自分にとってつまらないものはない。論理に五分のすきはなく、数学の運算に一点の誤謬はなくても、そこに取り扱われている「天然」はしんこ細工の「天然」である。……底の知れない「真」の本体はかえってこのためにおおわれ隠される。こういう、たとえば花を包んだ千代紙のような論文がドイツあたりのドクトル論文にはおりおり見受けられる。


 本物のひまわりには不ぞろいなもの、しなびかかってまっ黒な大きな芯や、干からびた花弁や、虫ばみ枯れかかった葉がある。


 人にも、ドロドロした部分や、横着な部分や、強欲な部分や、自分勝手な部分や、小ずるい部分がある。
 そういう人と人が何かをやらかそうとするのだから、なかなかうまくいかない。


 先のシブヤ大学のサイトには、理想が上手にまとめられてある。カッコよさげなコピーもついている。汚いものがない、という意味では“きれい”である(実際の渋谷は汚いし、うるさいし、チャチなものや表面的なものであふれているが)。


 しかし、そういうものを読むと、少なくともわたしは、ガラス細工の花のように感じる。違和感の正体はそんなところにありそうだ。