お酌

 以前、テレビで大林素子がこんなことを言っていた。


 彼女がイタリアのバレーボール・リーグに行ったばかりの頃、グループで食事に行って、まわりの人にワインをお酌した。非常に奇異な目で見られ、「なぜそんなことをするのか」となじられて、非常に恥ずかしかった、とまあ、そんな話だ。


 イタリアには、お酌する習慣がない。お酌されたほうからすると、食べ物を刺したフォークを自分の口元に持ってこられたくらい、気持ちが悪いことだったのかもしれない。


 わたしも、普通の酒の席では、お酌されるのをあまり好まない。
 最初のうちなら挨拶のようなものだからいいけれども、多少、酒が進んでくると自分のペースで飲みたくなる。


 わたしが自分の杯に酒を注ぐと、「あ、(気がつかないで)すいません」と謝る人もいる。そういうときは多少カドが立っても、「いやいや、勝手にやりましょう」と答えることにしている。
 いちいちお酌を待っていたら、ばんばん飲めなくてイライラするではないか。違うか。


 一方で、例えば、法事の席でお酌に回るのは、便利な習慣だと思っている。
 親戚と日常的な付き合いはなく、相手によっては多少、垣根のようなものがある。
 お酌すると、差したり、差されたりがきっかけとなって、話をしやすい。


 では、お酌という習慣がないイタリアは間違っているとか、コミュニケーションの方法がイタリアでは発達していないのかというと、もちろん、そんなことはない。
 別の習慣・方法が発達しているだけである。


 それに、日本のお座敷のように、地べたに座ってズリズリ移動できないと、お酌によるコミュニケーションも、半分ほどの効果しかないように思う。