哲学者

「哲学者」というと、沈思黙考、深刻そうな表情でじっと考えているイメージが勝手に湧く。
 哲学者に会ったことなぞないのに、不思議なものだ。


 まあ、肖像画や写真の印象から勝手にそういうイメージを抱いているところもあるのだろう。


カント


ヘーゲル


ニーチェ


ハイデッガー


 みな、生真面目そうな表情である。


 何となく、次のようなのは困るように思うのだ。



 いや、別にカントが南国で浮かれてはいかんという法はないのだが(あ、駄洒落になった)、やはり、カントにはドイツの冷たい風の中で悩んでいてもらいたい。


 あるいは、こんなのも困る。


ハイデッガー「ダハハ。その在り様において、ダハ、まさに道具が、そ、それ自身から自己を、ダハハ、露呈するときの、ダハハハハ、その存在様式を私達は、よ、用材性と呼ぶ。ダハハハハハハハ。よ、用材性だ。用材性。ダハハハハ。道具は、ダハ、この、即自存在を有するので、ダハハ、したがって、もはや単に出現するだけではないので、ダハハハハハハ、最も広い意味において手頃であり、ダハハハハ、いつでも、て、手にしうるのである。ダハ。ダハ。ダハハハハハハハ。はああ。なんでっかー、はいでっかー、なんちて。ダハハハハハハハハハハハハハハ。ゲホッ、ゲホッ」


 我々は、何となく哲学者というのはひとりでじっと物を考えるものと思いがちだ。
 しかし、ブレストというものがあるように、思いもよらないアイデアというのは、会話の中から生まれることが多い。


 ハイデッガーが人とゲラゲラ笑いながら、彼の哲学を組み立てなかった、と誰に断言できようか?


 ……い、いや、断言されても困るので、答えないでもいいです。どうもスミマセン。


 と、日本古来の秘術「とりあえず謝っておくの法」を使いながら、ふと横を見ると、ニーチェが怒っているのである。


ニーチェ「あのよー、あらゆる哲学者はな、現代の人間から出発してよ、その分析を通じて目標に達すると思いこむっちゅう、チッ、何ちゅうか、共通の欠陥を持ってやがんのよ。ハンッ! 思わず『人間』が、永遠の真理 としてな、ヘッ、あらゆる渦巻きの中の変わらぬものとしてよー、あとなんだ、事物の確実な尺度としてか? クソッ! きゃつらの念頭に浮かんでやがんだ。カーッ、ペッ! あンなあ、人間について哲学者が言明するってことはな、いいか? 全てよー、極めて限定された時代の人間についての、証言以外の何者をも、クソッ、根底に置いとらんのだっ。このハゲッ! 歴史的な感覚の欠如があらゆる哲学者の欠陥だっ! バカチンがっ!」


 なお、引用した部分は、ネット上からテキトーに引っ張ってきたもので、イナモトはなーんにも理解しておりません。バカチンがっ!


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「今日の嘘八百」


嘘七十九 悪妻を持ったから哲学者になるのではない。哲学者になんぞなるから妻が悪妻と化すのだ。