日本語で思想を話し合う難しさ

 日曜の夕方6時からはNHK教育の「ハーバード白熱教室」を見ている。ハーバード大学の政治哲学の人気教授マイケル・サンデル教授の講義を放送する番組だ。

→ NHK ハーバード白熱教室

 サンデル教授は具体例の用い方がうまく、話術がたくみで、学生達との掛け合いも楽しい。講義には一種ショー的なところもあり、魯鈍なおれでも楽しめ、何となく納得してしまう。

 しかし、肝心のサンデル教授による哲学議論に入ると、時折、ついていくのが大変になってしまう。まあ、大方はおれの頭の性能が悪く、おまけに時々気を抜く悪い癖があるせいなんだが、いくらかは日本語の特性によるんじゃないかとも思う。

 ひとつは、日本語の、特に漢語には同音異義語が多いことだ。わしら(日本語文化圏で生まれ育った者という意味)は同音異義語を半ばは音声、半ばは漢字の字面で捉えているんじゃないかと思う。たとえば、「たいしょうせいのしこう」という言葉を聞いたとき、「たいしょうせい」には「対象性」「対照性」「対称性」という3つの候補がある。「しこう」には「思考」「嗜好」「志向」「指向」(他にもあるが、意味的にありえそうなのはこの4つ)がある。それらの中から文脈に基づいて最もふさわしいものを類推する。おそらくそのときわしらは、漢字を視覚的に思い浮かべて選んでいる(曖昧で申し訳ない。瞬間のことなので捉えがたい)。よく知らないが、英語には日本語の漢語ほど同音異義語はなく、同音異義語の候補から選ぶ作業をあまりしなくて済むんじゃないかと思う。

 もし脳がそういう作業にいくらかのパワーと時間を割いているとしたら、これは、そういう作業をせずに済む言語と比べて、少々不利ではないか? 聞いた音から適切な言葉を選んでいる間に議論のほうはどんどん進んでしまい、追いつくのが大変になってしまうということはなかろうか?

 もうひとつは日本語の語順に関する問題で、ご存知のように、日本語ではたいてい述語が最後に来る。肯定なのか否定なのかも最後にわかる。でもって、哲学方面の話というのは、ややこしい議論をするもんだから、得てして修飾語句の多い長い文が出てくる。「○○性を○○する○○を○○だからという○○において○○することは○○的な○○という○○からすると○○、というわけではない」。最後に来て「ではない」と否定されて、ええーっ、と頭の中が一瞬真っ白になることがある。もう一度話をたどり直そうとするんだが、その間にまた議論が先に進んでしまって、アレヨアレヨ、である。

 否定文を日本語で語る場合にも、わかりやすくはできる。文をコマ切れに分解して否定の言葉をなるべく早く出してやる、文章の構成を変える、否定を予期させる言葉をちりばめておく、などの手口がある。しかし、「ハーバード白熱教室」のような吹き替えの番組では勝手に文章を大きく改変するわけにもいかないだろうから、なかなか難しいかもしれない。

 そんなこんなで、日本語で思想を語り、聞くのはいささか厄介なところがあるなあ、と思うのである。

 いや、「ハーバード白熱教室」の翻訳をけなしているわけではない。むしろ逆で、NHKの翻訳スタッフは、文の構造や言葉の長さが違う日英で、ややこしい内容を、サンデル教授の言葉の切り方まで合わせて、よくまああれだけちゃんと吹き替えにして理解させているものだと感心している。相当に濃密な作業をしているんじゃないかと想像する。それでもやはり聞いていて戸惑う部分はある。日本語の構造に根ざす問題なんだろう。

 もちろん、日本語が英語と比べて劣っているとか論理性に欠けるなんぞと言いたいわけではない。日本語には日本語の特性があり、よさがある。ただ、日本語では、特に漢語の頻出する会話の場合わしらは半ば字面で思考しているんではないか、文の最後に否定が来るので最後に来てちゃぶ台返しを食らうことがあるなあ、と思っただけである。

 ま、魯鈍はそういう理屈を考えてみた。自分への言い訳だけは昔から得意なのよね。