父と国家の品格

 このようなことを書き出したのは、藤原正彦の「国家の品格」が今でも引っかかっているからだ。


国家の品格」については、賛否両論、いろいろある。感激する人もいれば、クソミソにケナす人もおり、振幅の差はかなり大きい。


 わたしは、以前の日記(id:yinamoto:20060210)では、クソミソ派であった。アラヨッ!、と土手から放り投げて、いい気になっていた。


国家の品格」にはアラが多く、引きずり下ろしたい、蹴落としたい、己を相対的に高みに持ち上げたい、というヨコシマな欲望を満足させるには便利な道具だった。


 しかし、yagianが書いているが(id:yagian:20060203、id:yagian:20060204、id:yagian:20060215)、支持する人々の理由・心情、を無視するのは、確かに傲慢だ。「支持するのは彼らが馬鹿だから」で片づけるのは、もしかすると、浅はかでさえあるかもしれない。恥じ入って、思わず切腹しそうになった。


国家の品格」の大筋をまとめれば、こんなところだと思う。


 戦後の日本は論理(近代的合理主義、自由、平等、民主主義)が幅を利かせすぎ、その結果、今では拝金主義に陥ることになった。社会は論理だけではやっていけない。論理を補うものとして情緒と形が必要である。日本古来の自然を愛する感受性、時の移ろいに美を見いだす心、武士道精神の惻隠の情を取り戻せ。さすれば、国家に品格が備わるであろう。私は相変わらずもてないだろうが。


 ここでわたしは、父に再登場願うわけだが、父が「国家の品格」を読んだかどうかは知らない。


 家に帰れば、あっという間にヨッパラって、そのままガーガー寝てしまうという人だから(わたしの三十年後を予告するが如くである)、たぶん、読んでいないのではないか。


 しかし、仮に父の立場になって読むと、支持しそうな気はする。


 例えば、こんな文章。


 実力主義を本当に徹底し始めたらどうなるでしょうか。例えば同僚は全員ライバルになります。(中略)いつも敵に囲まれているという非常に不安定な、穏やかな心では生きていけない社会になってしまうのです。
 世界中の人々が賛成しようと、私は徹底した実力主義には反対です。終身雇用や年功序列を基本とした社会システムを支持します。


 あるいはこんなところ。


「会社は株主のもの」という論理は、私には恐るべきものに思えます。会社は、言うまでもなくそこで働く従業員のもので、株主は多くの関係者の一つくらいの存在でしかない。