父とわたし

国家の品格」について書かれたブログをぱらぱらと読んでみた。
 どうも、支持派とクソミソ派では、俎上に載せる箇所がズレているようである。


 先にまとめてみた大筋でいえば、支持派が共感するのは、前半の「論理を補うものとして情緒と形が必要である」までのところ。
 一方、クソミソ派がクソミソにするのは――細かな誤謬の指摘は全編に渡るが――主として、後半の「日本古来の自然を愛する感受性〜」以降の部分のようだ。


 まあ、確かに、今さら源氏物語松尾芭蕉、土蔵の奥で埃をかぶっていた日本刀(しかもどうやら竹光らしい)を持ち出されても、ズッコける。


 しかし――これはあくまでわたしのいっこうに役に立たない霊感によるもので、確たる証拠は挙げられないのだが――支持派にとっては、藤原正彦の説く日本古来の情緒、武士道精神がどんなものであっても、実はそれほど問題ないのではないか。
 そんなのは、「些末なこと」ですら、あるかもしれない。


 彼らが喝采しているのは、堀江社長のアブラぎった品のなさや、浮薄な言動の多い小泉首相の「構造改革とやら」に鉄槌を下し、自分の感じ方にお墨付きを与えてくれる“有名な数学者”の姿なのだから。
 論理を補うものとして藤原正彦が持ち出す、日本古来の情緒や武士道精神はファンタジーで構わない。あるいはファンタジーであればあるほど、都合がいいのかもしれない。


 彼らが感動しているのは、おそらく、“あなたは間違っていない”というメッセージなのだと思う。そういう意味では、「国家の品格」という本は、カバーにあるような「画期的提言」などではなく、慰藉の書なのだろう。


 クソミソ派は、「社会は論理だけではやっていけない」ということを、「んなこと、言うまでもない」と言うかもしれない(少なくとも、わたしはそう書いた)。
 しかし、そのことを、本当に肌身に感じて――例えば、わたしの父が感じるだろうような感じ方をしているかというと、まあ、人にもよるだろうけれども、結構、怪しいと思う。


 わたしは、「使えない」と評判のバブル入社組だ。
 もの凄く簡単に就職できたので(なんたって、企業側が学生を接待していたのだ)、どこか、社会というものをなめている。


 一方で、入社した途端にバブルが崩壊してしまった。
 バブル後、会社も政府も右往左往して、銀行までつぶれてしまうものだから、会社も社会も大してあてにならない、と思っている。少なくとも、わたしはそうだ。


 そういう捉え方は、規制を規制と思わずに、電力需要に応えるためダム建設現場に立ち、ぬかるみに足を滑らせ、冷たい雨に打たれ、熊を巴投げし、夜には建設業者からの「感謝の気持ち」のスコッチ・ウィスキーでヨッパラっていた(こればっかだな)父とは、皮膚感覚として違うように思うのだ。


 だからどうすれば、という提案は特にない。ま、各人、俳句でも、武士の情けでも、好きにやればいいではないか。そのうち、何かになっていくだろう、と、いつもの安易な意見で済ますことにする。


 ちなみに、言うまでもないことだが、父は小泉首相が嫌いである。


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「今日の嘘八百」


嘘六十五 八百まで、あと、七百三十四。