まんじゅう

 もう、何だか、くっついただけで相手をメタメタにダメにしてしまうバイ菌のような言葉があって、そういう言葉を発見することを、わたしはライフワークとしている。
 何なら、日本語界の北里柴三郎と呼んでいただいてもかまわない。


 先ほども、ひとつ発見した。「まんじゅう」である。


 旬なところで言えば、ニッポンを歓喜の渦に巻き込んだとされる、こんな例が挙げられる。


荒川静香まんじゅう


 彼女の郷里で、さっそく準備されていそうなところが、オソロしい。


 類例で言えば、


金メダルまんじゅう


フィギュアまんじゅう


 なんていうのも考えられる。


 さて、では、なぜ「まんじゅう」は相手をダメにしてしまうのか。


 もちろん、あの、全国の観光地にはびこるセコい土産物屋のせいであるのは間違いない。
 しかし、土産物屋については、斯界の大先達とでもいうべき、みうらじゅん氏が詳細な研究を行っている。ここでは控えたい。


 わたしは、まんじゅうのまんじゅうたる由縁、いわばまんじゅうのまんじゅう性とでも言うべきものを追求してみたい。


 しかし、これについても、実はすでに先行する研究結果が出ているのであった。


 次に槍玉に上ったのは、中国共産党の手先であるところの、肉マンである。餡マンは許せる。饅頭の中にアンコが入っているのは別に間違いではない。しかし、ヒキ肉を詰め込んで蒸し、カラシとソースをつけてこれを食うというのは、やはりどこか人の道にはずれているのではないか。肉マンは実は私の好物であり、私は一応の弁護を試みた。ヒキ肉を中につめ込むというのは別に間違いではない。ハンバーガーの変形と思えばいいし、餃子だって同じだ。しかし、これも、ハンバーガーは結構おおらかに外に向って開けているが、肉マンはまったく陰湿で閉鎖的であること、また餃子の持つあの鋭い存在感というものがまるで感じられず、唯、そこに居ればよいという安易で愚鈍な精神が容易に見てとれること、などの理由によって退けられた。
(「全冷中顛末記」、「山下洋輔エッセイ・コレクション3 へらさけ犯科帳」所収、晶文社刊、ISBN:4794951566