重力および尻との関係

 引用した部分は、山下洋輔氏らが冷やし中華の敵を検討していく中で明らかにされた肉マンの肉マン性である。


 実はすでにここで、まんじゅうのまんじゅう性のうち、かなりの部分が明らかにされている。すなわち、「まったく陰湿で閉鎖的であること」、「唯、そこに居ればよいという安易で愚鈍な精神」である。


 この偉大な成果に、わたしはささやかながら、ふたつの考察を付け加えたい。


 ひとつは、重力についてである。
 柔らかい粘土を地面に落とすと、へちゃっと地面にへばりついた後、ゆっくりと形を変えていく。全体的にやる気のない、ぐにゃりとした形態へと移行する。


 粘土の場合は、比較的短時間でこの変化が起きるのだが、人体においては長いスパンでこの変化が起きる。


 人間の体型を考えていただきたい。
 青年期にはスッとミケランジェロ的に均整のとれていた体が、中年期に移るにつれ、重力に負け、腹部を中心に、アスファルトに落ちたソフトクリームのような変貌を遂げる。


 これは、「この大空に翼を広げ、飛んでゆきたいよ」などとタワゴトを抜かす上昇の青年期から、「あたし、バカよね。おバカさんよね」と開き直る安定の中年期への移行を、肉体的に表象したものと考えられる。


 いわば、肉体について諦め、開き直ったとき、人は重力に敗れ(和解し、と好意的に言ってもよいが)、ジャバ・ザ・ハットと化すのである。


 まんじゅうは、この中年と重力との講和を象徴する食物である。オバサンがまんじゅうを愛し、その結果として、さらなる重力との講和を進めてしまうのは、そこに安定期を迎えた己の姿を見いだすからだと思われる。


 言ってみれば、「別にいいではないか」というのが、中年のジャバ・ザ・ハット体型とまんじゅうの共同コミュニケなのだ。


 もうひとつ挙げたいのが、尻との類似性である。


 わたしは尻というものの存在意義が、昔からよくわからない。なぜ穴があるだけではいけないのか。


 受けを取るためだろうか。


 確かに、尻が受けるということは、小学校低学年のガキどもに一言、「尻!」と言ってみればわかる。
 きゃつらはその一言で、3分は笑い転げるだろう。


「尻から生まれた尻太郎!」と続ければ、さらに騒ぎは大きくなり、おそらくは収拾のつかない事態に陥るはずだ。


 尻は受ける。そのうえ、存在感はやたらとあるくせに、存在意義が不明である。
 このことが、形態上の類似を通じて、まんじゅうのまんじゅう性に受け継がれているように思う。


 ま、早い話がまんじゅうは尻に似ているのだ。


 これらの理由が複合的に働くことにより、まんじゅうが他の言葉にくっついたとき、毒素が作用するものと思われる。
 どんなに洗練されたもの、イカしたもの、美しきものが来たところで、まんじゅうがくっついたら、全ての努力は灰燼と化すのだ。


ティファニーでまんじゅうを


 まんじゅうの影で、中年と尻が高笑いしている。


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