スリル

 昨日の朝、仕事で、あるホテルに行った。


 そのホテルには旧館と新館があり、ふたつ合わせると、かなりの敷地面積になる。


 駅には時間の余裕を持って着いた。
 ところが、新館に行かねばならぬところを、道を間違え、旧館のほうに行ってしまった。


 同じホテルだからどこかでつながっているだろう、とテキトーに新館の方向に歩いた。


 一箇所、いかにも連絡通路のようなところがあり、何人か、そこに向かっている。
 これだな、と検討をつけ、その通路に入った。
 歩きながらわたしの顔を見て、「あれ?」というような顔をした人がいた。後で、その意味がわかった。


 通路は地下に下っていき、壁はコンクリート。床はリノリウム
「客商売にしてはオンボロいなあ」
 と思いながら歩いた。廊下に新館を指す矢印があり、安心した。


 頭上にダクト類が見えてきて、どうやら従業員用の通路らしい、と気づいたのは、少し歩いてからだ。
 そういえば、すれ違う人々が次々に「おはようございます」と声をかけてくる。


 引き返して、駅のほうからまた行くには、大回りになる。どこかに出るだろう、と歩き続けた。


 壁には「すれ違う人には挨拶しましょう」と注意書きが書いてある。


 仕方ないので、「おはようございます」、「おはようございます」と声をかけながら歩き続けた。
 わたしは黒いロングコートを着ていて、従業員にしては怪しい格好でもある。


 通路はどんどん下り、右に曲がり、左に曲がり、する。だんだん不安になってきた。


 そのうち、行き止まりに来てしまった。


 防火用なのか、いかにも重たそうな鉄の扉がふたつあった。
 もう、かなり奥まで来ていたので、今さら人に訊くのも気後れした。


 片方を開けると、暗い部屋。あわてて閉めて、もうひとつの扉を開いた。
 通路だったので、そっちに進んだ。


 あまり人とすれ違わなくなった。さらに不安になった。
 約束の時間が過ぎたので、焦っても来た。


 また行き止まりに来た。


「常時閉」と書いてある扉と、エレベーターがあった。
 迷ったが、「常時閉」は違うだろう、エレベーターなら、うまくすればロビーに出られる、と思い、エレベーターに乗った。


 乗ると、今いるのがB3だとわかった。だいぶ下ったらしい。他のボタンはB2と2、3。


 2階がロビーの可能性もあると、2を押した。
 昇って、扉が開くと、厨房のようなところだったので、あわわわわ、とあわてて閉めた。


「客室でいいから、着け!」と念じながら、3階に昇った。
 リネン室のようなところで暗かった。どうやら、エレベーターはハズレで、「常時閉」の扉のほうが正解だったようだ。


 この頃には、相当、焦って、冷や汗をかいていた。


 B3に戻り、「常時閉」を開くと、通路のようなボイラー室のような、よくわからないところだった。
 とりあえず、向こうまで続いているようなので、進むことにした。「蛮勇」という言葉が頭に浮かんだ。


 低い音を立てている巨大な機械の横を通りながら、来た道順を思い返した。途中で間違っていたら、どこに出るかわかったものではない。


 かといって、引き返すには時間がかかり、しかもさらに迷ってしまう可能性だってある。人がちょっとしたことからドツボにはまっていくのは、こういうパターンである。


 部屋(なのか?)の端まで来て、扉を開けると、少し離れたところに日の光があった。洞窟で迷った人の気持ちが少しわかった。


 出口には警備員が背中を向けて立っていた。外出する従業員のようなふりをして、外に出た。
 新館の、旧館からは一番遠い側にある通用口だった。


 とまあ、それだけの話なのだが、昨日、あのホテルで殺人事件が起きていたら、どうなるだろう?


「そういえば、地下の従業員通路で、黒いコートを来た怪しい男とすれ違いました」
 という従業員の証言の数々に、警察は興味を持つんじゃなかろうか。


 わたしは無実だ。


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「今日の嘘八百」


嘘二十四 駅の裏にいまだに闇市が残っている。消費税を払っていないそうだ。