コスプレというのは、あれは何か、見る側(というか、おれ)を困った心持ちにさせる。
もし、どこかの部長さんが、「ワシは実はバレリーナになりたかったのだ!」と、ある日突然、白鳥の湖の格好で出社したら、まわりは随分と困るだろう。
それと同じで、やるなら、こっそり人目を忍んでやっていただきたいと思う。まあ、たいていはこっそりとやっているのであろうが。
しかし、ああいうのも、どんどんエスカレートして、深化・多様化していくのであろうか。例の染色体交換行為が、基本形からどんどん発展していって、さまざまな方式・趣向が案出され、全容をなかなか把握できなくなってしまったように(方式・趣向の案出にあたってはフランス人の寄与するところ大であったという説もあるが、単なるイギリス人による悪口かもしれぬ)。
趣味というのは、喜びが深いほど、どんどん高度化していくようである。「ああ、こんなものでは満足できない!」という、心の内側からの蒸気圧が、さらに深部へと走らせるのであろう。
あるいは、参加者間の競争意識、「あれに近づきたい」、「あの人の上を行きたい」という欲望が働く場合もあるやもしれぬ。
そうして、我々は、何年か後に、街で次のようなコスプレを目にするかもしれないのである。
・サラリーマンのコスプレ
あるいは、ニッチを狙ったマニアによる、
さらにマニアの心理が複雑怪奇化すると、
・こないだ家に来た国政調査員のおばさんのコスプレ
などという、もはや何が喜びなのか、素人には見当もつかない世界に迷い込むかもしれない。
しかし、わたしは案外と、
・いつも暇そうにしている商店街の電器屋のおっさんのコスプレ
などというのは、平和でいいように思うのである。
あ、ここまで書いて気づいたが、街を行き交うスーツ姿のあの人も、ジャージ姿のこの人も、レジ袋を腕から下げて立ち話しているおばさん二人組も、ランドセル背負った小学生も、実はコスプレしているのではないか。
少なくともその可能性は、人間には他人の心底というものを完全には理解できぬ以上、誰にも否定できないように思う。