テレビはあまり見ないのだが、新聞のテレビ欄は好きで、今、どういう人が話題になっているのかは“文字情報”として知っている。
エドはるみ、世界のナベアツ、鼠先輩、この3人には共通点があるようだ。
ある程度年を食ってから急に売れたこと、それから全然面白いと思わない人が多いことである。
わたしも、彼らが面白いと感じない。
見た範囲では、中学校の教室で自らをもってひょうきんと任じて、はしゃいでいる子どもくらいのセンスだと思う。
しかし、売れているということは、面白いと感じる人もそれなりにいるということなのだろう。
今年に入ってから、民放テレビ局の広告収入が激減している。特にスポット収入(番組と番組の間に流れるCM料)の落ち込みが激しく、4月〜6月は在京キー局のほぼ全てが前年同期比で2桁減だそうだ。
タイム収入(番組の提供スポンサーのCM料)はおおむね横ばいだが、これも将来、減ることはあっても増えることはないだろう。
それはそうで、広告費全体が大幅に増えることがないとしたら、人々がテレビ以外のメディアに時間を費やすようになっている以上、広告費はそちらに流れる。
テレビ局の収入が減れば、番組制作費も減る。
その結果どうなるかというと、民放のテレビ番組は報道、スポーツ、トークショーに絞られていくだろう。テレビドラマは制作費がかかるうえ、競合のメディアがあるので、安っぽさを逆手にとった新機軸が出ない限り、衰退していくと思う。
トークショーは、すでにそうなっているが、ますますお友達の集まりの代用品になっていくだろう。
お友達との付き合いというのは、いいことばかりではない。喧嘩やトゲ、いじめのようなもの、何となくのわだかまりなど、不快感がつきまとう。
テレビのトークショーは、そうした不快感をなくした、お友達の集まりの代用品を務めるようになっていくと思う。お友達の集まりの楽しい雰囲気だけを感じさせ、面倒くさい部分をそぎ落とした集まり。テレビという「何となくつけておくメディア」の特性にも合っていると思う。
オバサンの集まり、オッサンの集まり、ジジババの集まり、ガキの集まり、のそれぞれ代用品。
ラジオのトーク番組を拡大して、派手にしたようなものだ。CM収入が少なくても、制作費を安くあげられれば商売にはなる。視聴者のプロフィールをある程度予想できるから、視聴率が低くても、特化したCMを流すことができる。
エドはるみ、世界のナベアツ、鼠先輩。彼らはある意味、将来のテレビ・タレントのプロトタイプではないか。
中学生的なお友達の代用品の。