相変わらずアホなことを思いつくもので、作家の最期の言葉が、自作の有名フレーズだったらどうなるだろう、と考えた。
例えば、司馬遼太郎が、
「余談が過ぎた」
と言って死んだら、キマったろう。彼が膨大に書き飛ばした作品群は全て余談だった、というのだ(あながち間違っていなさそうなところが、またよい)。
一方、太宰治が、
「人間失格」
と言いながら死んでしまうのは、どうも、首尾一貫しすぎていて、今ひとつ面白くない。
「富士には月見草がよく似合う!」とでも叫んで、玉川に飛び込むんなら、まだ救いようがあるのだが(いや、救わんほうがいいのだろうが)。
関係ないが、太宰治に有名な写真がある。
先日、東京都写真美術館で実物(写真の実物、というのもよくわからんが)を見た。
写真家の林忠彦が、当時、作家や芸術家のよく集まった何とかいうバーで撮ったものなのだそうだ。
しばらく見ていて、「これ、すかしっ屁をしているとこではないか?」という疑惑にとらわれた。
しかし、真相は、今ではにおいとともに永遠の向こう側である。
余談が過ぎた。
文学界のバタヤンこと、川端康成の場合はこうだろうか。
「長いトンネルを抜けると極楽であった」
まあ、バタヤンの場合はガスを相当、吸ったらしいので、もしかしたらいろんなものが見えたのかもしれない。
あるいは、輪廻転生説をとるならば、「長いトンネルを抜けると、一匹の巨大な毒虫に変わっているのを発見した」という、カフカとの恐るべき合体変身技も考えられる。
タイトルは「虫国」ですかね。駒子はメスのカマキリかなんかで(バタヤンもつくづく救われない)。
漱石先生の場合は、
「吾輩は坊ちゃんである」
という最期の言葉になる。まわりの人々も驚いたろう。最後の最後に、そんな真相を打ち明けられて。
芥川龍之介はどうかな。中学以来、それなりに読んでいるはずなのだけれども、有名フレーズを挙げろ、と言われると何も出てこない。
「芋粥っ! 鼻っ! 歯車っ! 河童っ!」
これではタイトルを挙げているだけか。まあ、晩年は相当、神経が参っていたらしいので、そういう幕切れも考えられないではない。
大江健三郎の場合。
「あいまいな日本の私だったかな?」
最後まで曖昧なままなのである。