雑誌が「江戸」をテーマに特集を組むことがある。
料亭や着物を撮った家庭画報風の麗々しい写真を見開き全面で扱ったり、浮世絵を並べたり、勘亭流の文字が誌面に躍ったりする。
わたしには、ああいうものが本当の江戸を表しているとはどうも思えない。
雑誌などが取り上げる「江戸」は、あくまで明治、大正、昭和を経て、平成の今、何となく信じている「江戸風」のものであって、実態は随分違ったんじゃないかと思う。
例えば、「歌舞伎に見る江戸の粋」なんていう記事があったとする。
もしそれが江戸の粋をそのまま伝えているんなら、明治、大正、昭和、平成に「もっと面白いものを。観客を唸らせるようなものを」と工夫を重ねてきた歌舞伎俳優、関係者の努力はどうなるのだ、と思う。
また、明治、大正、昭和、平成と歌舞伎を育ててきた観客の美意識も無視してしまうことになる。
明治、大正、昭和、平成、その間、ざっと百四十年だ。この長さは重い。
たぶん、特集を作る編集者やデザイナーは楽しいのだろう。「江戸」にはお祭的ムードもあれば、郷愁もある。
しかし、「江戸」というのはなかなか曲者でもあって、下手に取り上げると大漁舟盛り的に野暮ったくなりがちだ。例えば、「大江戸」と言い出したら、その時点でもうダメダメである。
柳家小三治がマクラでこんなことを言っている。
(人が)「落語を聞くと江戸時代がわかる!」なんて言うんです。わかるワケがないでしょう?(客、笑) やっているやつがわからないんですから。ただまあ、こうだったらいいのになあ、とか、そういうことはどうしてもネ、考えますが。そんなものでございましょう。
(「落語名人会35 柳家小三治11」より「粗忽の釘」。ソニーミュージックエンタテインメント、ASIN:B00005G6XG)
きちんと物を考えている人の言葉だと思う。
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「今日の嘘八百」
嘘五百六 温室効果ガスを出さないよう、最近はなるべく息を止めております。