何とかしてあげたい

「何とかしてあげたい」と思わせる人がいる。


 母性本能の故ではない。わたしが母性本能を持つには、少なくとも染色体を一本、取り替えなければならない。


 素晴らしいことができそうな才能を持っているのに、無駄にしている人を見ると、「何とかしてあげたい」と思う。


 例えば、ロッド・ステュワートがそうだ。


「好きなミュージシャンは?」と問われて、「ロッド・ステュワートです」と答えるのには勇気がいる。馬鹿にされそうだからだ。


「セクシー」、「スーパースター」をキーワードにして、浅いロック調の歌か、安易に“お膳立て”された歌を唄い、ブロンドの女性を連れてグラミー賞やなんかの授賞式の席に招待客として座っている――1970年代後半以降のロッド・ステュワートの印象は、おおむね、そんなところだろう。


「スーパースター」であるからには、彼を支持する膨大なファンがいるはずなのだが、いったい、どこにいるのだろう。謎である。


 しかし、1970年代前半の彼は、素晴らしいアルバムを作っていた。


「ガソリン・アレイ」、「エヴリ・ビクチャー・テルズ・ア・ストーリー」は、たぶん、当時の相棒、ロン・ウッドの音楽的センスによるところが大きいと思うのだけれども、アコースティックを主体にした名作だ。
 綿素材のようなざらっとした感触のアルバムで、よく聴く。ロッドの歌も、バンドの演奏も、深みがあって素晴らしい。


 同じ時期に彼が在籍していたバンド、フェイセズも、陽気な酔いどれバンドで、イカしている。
 こっちは、ソロ・アルバムに比べると、シンプルなロックンロール。ヤンチャで、憎めない人々だ。
 別に深みはないが、ロックンロールはそれで構わない。「ヒャッホー。サイコー!」。ある種の、ロックンロールの理想像かもしれない。


 ただし、ベースに山内テツが入っている、解散間際のライブ・アルバムは買ってはいけない。たぶん、幻滅する。
 おそらく、ロッドがスターになりすぎて、増長し、フェイセズがただのバックバンドに成り下がったからだろう。後のロッドの転落を予感させる。


 イギリスの作家のニック・ホーンビィがエッセイ「ソング・ブック」(森田義信訳、新潮文庫ISBN:4102202153)にこんなことを書いている。


エルヴィス・コステロも昔のロッド・ステュワートのファンなのだが、最近彼が、あなたのプロデュースをしたいとロッドに持ちかけた。つまり、名誉挽回への道をつけてあげようというわけだ。ぼくも同じ夢を描いている。きちんと曲を選び、(中略)おなじ気持ちをわかちあえるメンバーを選ぶ。<エヴリ・ピクチャー・テルズ・ア・ストーリー>のあのフォーキー(稲本註:フォークミュージック調の意)でバタバタしたストンプをうまく再現できるミュージシャンたちだ……ぼくならきっとロッドにいい仕事をさせてやれるにちがいない。


 同感だ。


 別に、ロッドが生き恥を晒しているのはどうでもいいが(いや、「セイリング」をたまたま耳にすると、こっちが気恥ずかしくなるが)、もう一枚くらい、素晴らしいアルバムを作らせてあげたい、と思う。もったいない。