神秘性

 昨日も書いたが、病気で公の場に顔を見せなくなって以来、長嶋の神秘性が高まっている。


 一昨日、ようやく姿を見せ、しかし、肉声は聞かれず、VIPルームの高みから人々に手を振った。大げさに言えば、現人神(あらひとがみ)のように見えたのであった。


 容易には現れない、隠す、ことで神秘性は高まるようだ。


 わかりやすい例はもちろん、二重橋方面の方々だが、二重橋方面にゆかりの深い伊勢神宮でも同じことが行われている。


 伊勢神宮(内宮)の正殿は高い垣根に囲われて、上半分しか見えない。
 森の中の長い道を通り抜けて正殿の前までたどり着いても、正殿は隠されている。


 人々は、「この垣根の向こうの社の中にそのお方がおわしますのであるなではべりいまそがり」と、畏れを抱きつつ、頓首再拝、恐惶謹言、遙拝して森の中の道へと戻るのだ。


 正殿の中が一般の人に公開されることはない。
 たぶん、見てしまえば古い鏡が置いてあるくらいで、何ということもないのだろうが(もっとも、生身のアマテラスオオミカミがうちわで顔を扇いでいたりしたら驚くが)、見せない、隠すことで、神秘性はいやがおうにも高まるのだ。
 正殿に至る長い森の中の道、というのも、演出、仕掛けとしてよくできている。


 容易には現れない、隠す、ということでは、高倉の健さんもそうだ。
 私生活はまず明かさないし、関係者によるガードも相当、固いらしい。


 実際には、誕生日にピエロの三角帽子をかぶって、鼻と口髭がついた眼鏡をかけ、クラッカーをパーンと鳴らして、「おめでとう! ハッピー・バースデイ!! さあ、今日は食うゾ〜」とやらかしているのかもしれないが(しかも、自分の誕生日にひとりで)、一切、私生活はわからないようにしている。


 昔の「昭和残侠伝」や「網走番外地」を見ると神秘性なんて特にないのだが、いつの頃からか、神秘性を感じさせるようになった。
 あるいは、映画以外での自分を徹底的に隠すことによって、役者としての価値を高めているのかもしれない。


 もっとも、容易に現れない、隠す、という手を使えば、何でもかんでも神秘性を帯びてくるわけではない。


 例えば、なべおさみが私生活を徹底して隠したとしても、特に神秘性は帯びないだろう。


 あるいは、わたしが俗世から隠れたとする。
 新聞の集金にも、チェーンをつけたまま、ドアを少しだけ開き、小声で「あの、い、いくらでしょうか」とやったって、“ただの不気味な人”、“奥の部屋に何か隠していそうな人”というだけである。


 神秘性を感じさせるかどうかには、当然といえば当然だが、本人の資質や属性が関わる。
 アマテラスオオミカミなんて、資質、バリバリである。


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