延命措置

 これは、あくまでわたし自身のわたしに対する考えで、他の人もそうすべき、ということではないのだが、しばらく前に問題となった延命措置。
 あれ、わたしが人工呼吸器につながれて、意識の戻る確率が低いようなら、さっさと外してもらいたいなあ、と思う。


 外した側の法的責任、なんてのは知らないよ。あくまでわたしの意思の話。


 意識の戻る確率が、まあ、2割5分(どうやって計算するのか知らんけど)を切ったら、やめてもらって構わない。打率みたいなもので、ボロボロになってまで現役を続けるつもりはないのだ。


 他にもっと人工呼吸器を必要とする人がいるかもしれないし、第一、電気代がもったいない。
 もし延命措置(わたしの場合は延命処理と言ったほうがしっくり来そうだ)に使うお金があるんなら、ユニセフにでも、赤十字にでも寄付してもらいたい。


 でも、ホワイトバンドを大量に買う、なんていう間抜けなことはしないでね。


「じゃ、そろそろ外しますか」
「そうですね。そろそろ行きましょう」
「ハイ、みなさん、コード持って。いいですか。せーの」
「(全員で)ヤッ!」
 ワーッ、パチパチパチ。


 なんてふうに、陽気にやってもらえるとうれしいのだが。


 それから、わたしが意思表示できない状態で、客観的に苦しい、痛いようなら、そんな治療もさっさとやめてほしいんだけど、これは無理だろうな。


 山田風太郎が「人間臨終図巻III」(徳間書店ISBN:4198606129)の志村喬の項に書いている。


 彼の扮した「生きる」の主人公は、雪のふる公園のブランコで哀切な死を待つが、「近代医学」はそんな静かな死を許さず、例によって例のごとき医学的拷問を与えた。
「もう無残とも思える治療でさぞつらかったろうと思います」
 と、親交のあった本多猪四郎監督のきみ夫人は語る。
 近代は、死に対するさまざまの恐怖に病院の「治療」の恐怖を加えた。


 あと、点滴にアルコールを加えてもらえると楽しい。
 どうなんだろう。いい気持ちになれるのかな。


 元気なうちに看護婦に恨まれて、アセトアルデヒド(二日酔いの原因)を点滴されたりして。


 積極的に死にたいとは思わないけど、何が何でも生きたいとも思わない。
 何しろ、前にも書いたが、わたしの人生訓は、


一、逃げる
二、誤魔化す
三、やりすごす


 だ。


 死んだら、体は医学部の解剖実習でも、臓器移植でも、好きに使ってもらってかまわない。
 ただし、臓器移植は、移植された人が非常に迷惑しそうな気がする。


 ところで、こういうことを、公開している日記に書いた場合、後で法的根拠になるのかな。


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「今日の嘘八百」


嘘百二十 私の一生は重荷を負うて遠き道をすっ転ぶが如し。