万博

 始まる前から何だが――というより、始まる前だからこそ書けるというべきかもしれないが、愛知万博、成功するのだろうか。


 何をもって成功とするのか、という問題がまずあるけれど、集客と収支の予想と実際、というのは、まあ、わかりやすい。ただ、無料でバラまいたチケットをカウントするというズルが行われそうな気もする(私は生来、猜疑心が強いのだ)。
 来場者の評価、というのもあるだろうが、これは調べるのが難しい。アンケートは設問次第で割にコントロールできそうだから、あまり当てにならないと思う。


 ここで、私の愛知万博についてのスタンスを書いておくと、万博の内容自体についてはほとんど興味がない。
 特に成功を願っているわけでもなく、むしろ、ああいう行政と地域の財界が主導するものは「どうせ、失敗するだろ」とハナっから馬鹿にしている。失敗が明らかになった後のドタバタをむしろ楽しみにすらしている。
 まあ、プロ野球の試合にはあまり興味がないが、プロ野球の再編をめぐるゴタゴタには興味があるようなものだ。


 万国博覧会というのは19世紀のヨーロッパで生まれたそうだ。
 当時は、普通の人にとって他の国へ行くのは並大抵なことではなく、たとえばヨーロッパの人がアメリカ大陸やアジアの物品を見るのは珍しかったろう。
 また、建築などの「モノ」的なテクノロジーが夢と希望に満ちていた頃で、エッフェル塔は1889年のパリ万国博のために建設されたのだそうだ。
 当時は、「美しいパリの街を台無しにする」と、京都タワー並みの反対運動もあったと聞いたことがある。
 まあ、ともあれ、未来に対する浮かれ踊り感があったのだと思う。


 それから100年以上が過ぎ、少なくとも日本の大都市は古い時代の万博的要素を既に備えている。古いタイプの万博をやる意味があまりないのは確かだろう。


 なので、愛知万博は「21世紀型の万博を目指す」とかなんとか言っているらしいけれども、そもそもなぜ万博をやるのか、よくわからない。
 愛知県の政財界の人々(たぶん、50歳以上だろう)には、大阪万博の成功記憶というのがあるのかもしれないが、あれは日本が高度経済成長でおまけに月に人間が行けましたバンザイバンザイという時期だったから、うまくいったのだろうと思う。あと、岡本太郎のカリスマ&トラウマ的モニュメントとね。


 万博を開く、というのは誰が言い出して、どういうふうに開催が決まっていくものなのだろか。
 なんとなくだが、県民から草の根的に「愛知に万博を!」などという話は出てこない気がする。


 最初に言い出したのは誰か。


 知事の選挙公約か、県庁のしかるべき部署の「何か、将来へ夢のある大型特別事業を」という変な思いこみからなのか。


 あるいは、地方政治家と地域財界人との昼食会か何かで、よくわからないうちに出てくるのかもしれない。
「どうも、愛知県のケーザイは、そこそこ堅実だけど、華がありませんね」
今市市(いまいちし)だね」
「(聞かなかったふり)」
「栃木県の」
「(曖昧な態度)」
今市市。栃木県のね、今市(あたりをさっと見渡す)」
「ハハ、ハハハ……(困っている)」
「あの、やっぱり、何か大きい、華のあるイベントのようなものが必要なんじゃないでしょうか」
「オリンピックはダメだよ。以前、誘致に失敗して、エラい目にあった」
 ここで、一同、1964年東京オリンピック→1970年大阪万博という、上り調子ニッポンについての安易な連想をする。
「うーん、たとえば――あくまで、たとえば、ですけど……」
「なんだね。遠慮せずに言ってみたまえ」
「あの、万博、とか」
「万博ねえ」
「でも、今の時代、どうなんだろ」
「まあ、しかし、一応、検討してみてもいいんじゃないかね。役所のほうにやらせてみるよ」
 とまあ、曖昧な日本の愛知的なりゆきで話が始まったんじゃないかと勝手な想像をする。


 で、役所に検討させると、エラい人から来た話なので、役人はあまりムゲに「失敗します」とも言えない。仕方がないので、それっぽい検討資料をつくる。たぶん、そういう仕事は得意だと思うのだ、しかるべき部署の人々は。


 な〜んとなく、やるという空気になっていって、そこから泥縄式に、有識者による「ナントカ検討会」、「ナントカ委員会」というのができていって、広告代理店がからんで、国など巻き込みつつ、住宅建設にも役立ちますしとか言っているうちに、ワシやタカがどうしたという話が湧いてきて、困りつつ、計画変更をして、プランナーがあれこれやって、実行委員か何かのエラい人が降りて、その穴埋めを別のエラい人でやって、今ひとつ盛り上がらないので広告戦略をいろいろやるけれど、渋谷駅に「愛知万博まであと何日」と電光掲示板を置いても、全体的に道行く人々は「あ、そ」という態度で、今日に至る、とこういうことなんじゃないかと、今、さらに勝手な想像を付け加えた。


 まあ、私はハナっからネガティブな見方をしている。「せっかくやると言っているのに、どうしてそうネガティブに見るんだ」というご意見もあるだろう。
 しかし、やると決まったからポジティブになる、というのは本末転倒だと思うのだ。万博をやる意義、というもの自体が私にはわからない。


 で、ですね、今、ようやく愛知万博の公式サイトを見たら、通称を「愛・地球博」というのだそうだ。知らなかった。えらいまた薄っぺらい通称をつけたものだ。


・愛・地球博


 まあ、行政的無難な言葉選びなのだろうが、実にぬるい。こういう名前をつけただけで、“うわべ的”、“おシゴト的”、“糊塗”というニオイが強まる。
 そりゃあ、愛は大事だろうけど、博覧会で謳うような種類のものではなくて、個々人の問題だと思うのだ。「地球博」と言われたって、「とりあえず何でも入る容器を用意しました」というふうにしか見えない。
 だいたい、愛だの、地球だの、なんて今さら言うようなことではない。日本テレビの丸一日ハシャいでいる文化祭みたいなアレにでもまかせておけばいいのだ。


 今、やるんなら、「万国暴力博覧会」とか、「万国貧困無知博覧会」とか、「憎悪・対立博」とか、「禁断症状・麻薬博」とかね。そういうものなら、テレビや活字によってではなく、生で見る意味はある。対世間的メッセージやインパクトも強いだろう。


 あるいは、「完全な理解とか調和はまず無理だから何とかお互いマシな道を見つけるかうまいことやり過ごす方法をみつけたいものだ博」とか。博覧会にしなきゃいかんのか、よくわからないけれども。


追記:読み直して気づいたけれども、「愛・地球博」というのは、「愛知きゅう博」という駄洒落なのではないか? もしそうなら、馬鹿か、コイツらは! ぬるい、というより、ぬるぬるだ。


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