恋は発情

 わけのわからないタイミングでわけのわからないことを思いついてしまうタチで、昨日、ふと「恋というけれど、要は発情ではないか」と考えた。発情を文化的なオブラートに包むと恋という美しい言葉に変わる。しかし、人間に発情という肉体/神経回路/脳内物質的な衝動がなければ、恋というものも存在しないのでははないか、とまあ、そんなことを考えたのだ。

 試しに、「恋」の入るいろんな言葉を「発情」に置き換えてみよう。

発情は思案の外

 おれなんぞまったくその通りであって、特に若いうちは意外なときに意外な「恋」をしてしまって難渋したことがある。

 「初恋」というのは何かこう、甘酸っぱく、初々しく、可愛らしい印象だが、こんな質問を投げかけるとどうなるだろう。

「初発情の人は誰ですか?」

 テレビのぬるいトーク番組も、このくらいの切り込み方はしてもらいたい。

老いらくの発情

 いやまあ、そういうこともあるだろう。たまに嘶く(いななく)というやつですね。

 恋女房という言葉もあって、昭和の少し湿ったにおいがあって結構なものだが、

発情女房

 なんだろうか、この困った感じ。見てはいけないものを見てしまったような。

 昔あった可愛らしい映画「小さな恋のメロディ」も大変なことになる。

小さな発情のメロディ

 ああ、何かやはり汚してはならないものがこの世にはある、という気もしてきた。申し訳なひ、申し訳なひ。

土と内臓

 

 

 人間の腸の内と外を(靴下を裏表にするように)ひっくり返すと植物の根のようになり、植物の根の内と外をひっくり返すと人間の腸のようになる、という着想に、読んでクリビツテンギョウ(びっくり仰天)した。

 人間の小腸には腸絨毛(ちょうじゅうもう)と呼ばれる繊毛のようなものがあって、栄養を取り込んでいる。植物の根っこには根毛(こんもう)と呼ばれる繊毛があって栄養を取り込んでいる。どちらも、細い毛のほうが消化液や土との接触面積が広がって効率的に吸収できるので、そういうふうに進化したのだろう。

 ・・・とまあ、そういう形的なことは考えてみればなんとなくわかる。しかし、この本の中心的話題は、腸あるいは根と、細菌やバクテリアなどの微生物との関係だ。

 植物の根っこのまわりには微生物がたくさんいて、植物に有用な代謝物を作り出している。腸の中にも微生物がたくさんいて、動物に有用な代謝物(吸収しやすいかたちにした栄養素など)を作り出している。それを植物は根で、人間や動物は腸で吸収して生命を維持している。

 植物に必要な養分も、動物に必要な栄養素も非常に多様であって、それらは多様な微生物が働くことで賄われている。

 案外とこのことの研究というのは新しくて、この頃わかってきたことがだいぶ多いらしい(わかっていないこともまた)。科学が非常に進んでいるように勘違いされがちな現代だが、自分の足もとというか、腸もと、根もとのことがわかっていないわけだ。

 人間について言うと、微生物の中には病原体になるものがあって(いわゆる病原菌)、命救わねばの娘、というわけで微生物は殺すべき、という固定概念が長い間強かった。抗菌グッズや殺菌系商品が氾濫しているのは「細菌=ヤバいもの」という意識が蔓延しているからだろう。人体のために細菌類を殺すのが抗生物質だが、抗生物質は有用な、あるいは中立的な細菌も殺してしまう。結果として健康を損なうこともある。人間に有害なオオカミを駆除したら、鹿が大量に増えて植物を食べつくてしまった、という話にも似ている。

 植物の側でも、農薬などで有害な細菌や雑草、虫などを殺してしまえ! という考えは強く、おれが富山の凄まじい美少年だった子供の頃も、ヘリコプターなどで派手に農薬散布をしていたものである。農薬で確かに有害なものは死ぬのだが、同時に有用なものまで死んでしまうのが難しいところである。

 この頃、多様性、ということが人間社会やあるいは企業などでも言われる。多分にイデオロギー的なことも含まれているが、人間の腸や植物の都合でいうと、イデオロギー抜きに微生物の多様性は必須ということであるらしい。腸活とかプロバイオティクスなどと呼んで、乳酸菌やビフィズス菌を摂ることが勧められるが、おそらくコトはナントカ菌を一種類とればよい、ということではないようだ。腸の中でも根っこのまわりでも多様な微生物が相互に物質を交換したり食べたり食べられたりという複雑な関係を結びながら、全体としては動物や植物の役に立っている(逆に動物や植物も微生物の役に立っている)。

 ワシらは微生物という肉眼では見えない生物達が支配する世界の軒下三寸で、どうにか生きさせてもらっている、というのが正しいのかもしれない。

TOKYO OJ 2020

 政府方面では東京オリンピックを強行しそうで、困ったことである。

 おれはあまりお祭りごとが好きではない。町のお祭りには参加しないし、わざわざ見に行くこともしない。誕生日を祝わないし、クリスマスも祝わない(クリスチャンでないのだから当然である)。一年のうちで祝うといえば、お正月だけである。

 そんな具合だから、オリンピックのお祭り騒ぎも興味がない。やかましいなー、といつも思うし、東京オリンピックについてははっきり言って迷惑である。

 スポーツに興味がないわけではなく、サッカーのワールドカップラグビーのワールドカップは好きである。しかし、オリンピックのサッカーははっきり言って中途半端だし、世界最高峰の大会としてはヨーロッパのチャンピオンズリーグとワールドカップがあればそれでよいと思っている。オリンピックのサッカーやテニス、バスケットボールはIOCがお金になるスポーツを自分たちの領分に引っ張り込んだというだけであって、選手にとっても、オリンピックの金メダルとたとえばサッカー・ワールドカップ優勝のどちらがうれしいかと言われれば、ほぼ100%ワールドカップ優勝だろう。

 オリンピックを楽しみにする人の多くは、もちろん、スポーツ好きもいるだろうけど、あの高揚感を味わいたいのだろう。しかし、このコロナ騒ぎのなか、オリンピックを開いたところで、高揚感より不安感のほうが大きくなりそうだ。高揚感がないなら、感染増加の危険をおかしてまでなぜオリンピックをやる必要があるのか、と思う。

 政府方面や企業方面についてはよく知らないが、想像するに、ことここに至ってはお金や体面やなんだで、今さら後にひけない、といったところではないか。

 そういう意味では、TOKYO 2020なんて言い方はやめて、TOKYO OJ 2020またはTOKYO SRK 2020とでも呼んではどうかと思う。東京おとなの事情オリンピック、東京シラケオリンピックである。

 もし東京オリンピックをやることにメリットがあるとしたら、その後数十年間はオリンピックなんぞ地元でやらずに済むことだとおれは思っている。いらない。

ジェンナー、現代にあらば

 先週書いたように、イギリスのエドワード・ジェンナーは天然痘予防接種法を発明した偉人である。しかしまあ、その方法は8歳の少年(他人)に牛痘を接種し、その数ヶ月後に天然痘を接種してみる、というなかなか冒険的なというか乱暴なやり方であった。誰もそんなことやってみたことがないのだから、まあ、仕方がないといえば仕方がないが。

 ジェンナーがこの人体実験をやったのは18世紀末で、もちろん、今とは物事の考え方も医学のあり方も価値観も違う。しかし、もしジェンナーが現代の日本に生きていてマスコミの餌食になったらどういうふうだろうか。仮にジェンナーが現代の富山県の医者だったとしてみよう(富山県という設定にするのは別に深い意味がなく、おれの生まれ育った土地で、ジェンナーも当時、イギリスの田舎医師だったからである)。

 

富山の怪医師! 8歳の少年に天然痘を注射!!

 

 富山県のある町で、今、奇怪な噂が広まっている。噂の主はエドワード・ジェンナーという開業医師。学士院のメンバーであるいわば地方の名士である。

 噂によれば、ジェンナー医師は、牛痘にかかった農婦の手にできた水疱から液体を抜き、それを8歳の少年に注射し、さらにはその数ヶ月後に、同じ少年に、天然痘にかかった人の膿を注射したという。

 少年の身元は不明だが、孤児とも、貧しい家庭で、親が注射する代わりにお金を得たとも、さまざまな話が伝わる。

 事情を知る近所の主婦達はこう語る。

「ジェンナーさんの診療所から、小さな子の泣き叫ぶ声が聞こえました。その声を聞くだけで、もう、怖くて、怖くて」

「そのお子さん、注射の後、ひどい頭痛で、食欲がなくなり、まる一日、苦しんだと聞いてます」

 事実なら、恐ろしい天然痘を子供に注射するという悪魔にも等しい行為。明らかな児童虐待、殺人未遂であり、地元の警察も関心を持っているという。

 

 やがてこんな事実も判明する。

 

実の息子にも天然痘を接種!  富山のマッド・ドクター、恐怖の人体実験

 

 先日、報道した富山の怪医師は、以前にも同様の事件を起こしていることが判明した。ジェンナー医師は、7年前にも、あろうことか実の息子に天然痘の膿を注射。本人は「医学の進歩のためである」とうそぶいているというが、子供を使った恐怖の人体実験に、富山の小さな町には戦慄と恐怖が走っている。

 

 もっともジェンナーの当時、軽い症状の天然痘を接種すれば、軽い天然痘を患うだけである、ということは(疑いの目で見られながらも)知られていたという。

 そして、マスコミが富山のジェンナーを追ううちに、こんな事実も判明する。

 

富山の怪医師に悲しい過去 孤児、虐待、人体実験

 

 連日報道の続く富山の怪医師エドワード・ジェンナー氏であるが、本誌は彼の過去を追ううちに、少年時代の恐怖の体験を知ることになった。

 ジェンナー氏は幼くして孤児になった。医師に買われて、6週間にわたって何度か絶食や放血を受けさせられた。その後、家畜小屋に引き立てられ、馬のようにつながれて天然痘の膿を接種さえられたという。

 この恐ろしい仕打ちが、やがて、息子や赤の他人の子供に天然痘を接種するという人体実験への奇怪な情熱をジェンナー氏に掻き立てたとすれば、恐るべきトラウマというべきか、因果応報というべきか。

 

 わしらが今、ワクチンを打って「やったー! もう大丈夫!」などと喜んでいられる蔭には、このような悲しい事実があったのである。

ジェンナー 成功したからいいようなものの

 ワクチンというのは、おれの理解では病原の細菌なりウィルスなりに非常に似た、しかし毒性は弱いものを体に打ち込む。それでもって、病原に対する抗体を体内につくり、本物の細菌なりウィルスなりが入ってきたとき抗体に攻撃させる、とまあそんなものであるらしい(理解が間違ってたら申し訳ない)。

 えらいことを考えたものだなー、と思うのだが、このやり方を始めたのはジェンナーという人である。

 エドワード・ジェンナーは18世紀後半から19世紀初めの人で、田舎の医者であった。牛痘という病気にかかった人は天然痘にかからないという言い伝えをもとに、牛痘をジェームス・フィップスという少年に接種してみた。

https://upload.wikimedia.org/wikipedia/commons/c/cf/Jenner_phipps_01.jpg

 でもって、しばらく経ってから今度は天然痘をフィップス少年に接種して、天然痘を発症しなかったので、よかったよかった、とまあ、そういう話である。このフィップスという少年がジェンナーの息子である、とされて美談扱いされていることもあるが、赤の他人だそうである。

 しかしまあ、実際、牛痘がワクチンの役割を果たしてフィップス少年が天然痘にかからなかったからよいようなものの、もし間違っていたらどうなっていたのだろうか。ジェンナーは天然痘を人の子供に接種して天然痘にかからせたマッド・ドクター扱いされたのではないか。ジェンナーにどれだけ確信があったかは知らないが、ハタから見ればイチかバチかの賭け、人体実験であって、今日の価値基準でいえばなかなかの児童虐待である。そう思って上の絵を見てみると、また違った味わいが出てくる。

 なお、ジェンナーの実の息子のほうは、フィップス少年で実験する7年前に天然痘(だけ)を接種されたんだそうで、これもなかなかマッド、というか、フィップス少年以上にヤバい話である。無事だったんだろうか。

 医学の進歩には犠牲は付き物なのです、などと言えるのは引いたところから他人事として見ているからである。まあ、ジェンナーさんのマッドさが結果的にうまく転がって天然痘は撲滅され、ワクチンの研究も進み、我々がその恩恵を受けているわけではあるが、何かこう、おれには、それでいいんだろうか、というモヤモヤもちょっと残るわけです。

外来種と感じ方の転写

 

  日本語タイトルの通りの内容で、最近読んだ本のなかでも出色であった。

 生態系と在来種、外来種の関係を数多くの取材や論文から考えるもので、目からウロコの話も多かった。

 外来種によって生態系が破壊される、だから外来種は駆除しなければならない、という主張をよく見かけるし、役所方面や国際ナンタラカンタラという公的な機関もそういう方向で動いている。

 しかし、実際には生態系が先にメタメタになって、そこに外来種が広がるとか、外来種が入ってきたことによってかえって生態系が多様になって弾力性(レジリエンスだっけ?)が高めることも多いという。

 また、外来種か在来種かという分け方自体も結構恣意的であって、たとえば、稲は外来種だろうか、それとも日本に来て何千年と経っているから在来種だろうか。外来種としたら、これほど日本の自然の姿を変えた植物もいないわけで、そのおかげで滅びた動植物もいれば、かえって反映した動植物もいるだろう。

 著者の大きな考え方は、自然というのはいきあたりばったりで、そのとき、そのときの状況によっていろいろ変化する。在来種だろうが外来種だろうが、自然にとっては関係ない、形を変えながら自然(あるいは生態系)は思われている以上に貪欲に続く、というものだ。おれもそんなふうに思う。

 外来種に対するキビしい目線というのは、実は人間社会における外国からの人の流入が自然の捉え方に転写されたものではないかと、おれはニラんでいる。これまで比較的似た習慣、反応のなかでいられた社会に見た目も嗜好も習慣も違う人々が入ってくる。しかし、あからさまに排外主義を唱えるのも勇気がいり、なんとなく今はそういう主張はよろしくないという雰囲気もある。それが、外来種によって既存の生態系が破壊されつつあるとか、在来種との交雑が進む(人間に置き換えるとどういうことか考えるのも一興だ)という話になると、なにせ自然界の話であるからして、おおっぴらに排外的なことを言える、わめける、主張できる、とまあ、そういう面もあるように思う。本人ははっきり意識していないかもれないが。

 在来種か外来種かなんて、自然が決めるのではなく、人間が決めているものではある。

日本共産党の綱領を読む

 全然知らなかったのだが、日本共産党が昨年(2020年)の1月に綱領を16年ぶりに改定したんだそうだ。

 おれはもう10年以上前だと思うが、日本共産党の綱領(前のやつ)を読んで、その大時代的な内容に驚愕した覚えがある。今回はどうだろう。早速、日本共産党のサイトに見に行ってみた。

 面白いと思ったところをテキトーに抜書きする。

日本独占資本主義は、戦後の情勢のもとで、対米従属的な国家独占資本主義として発展し、国民総生産では、早い時期にすべてのヨーロッパ諸国を抜き、アメリカに次ぐ地位に到達するまでになった。その中心をなす少数の大企業は、大きな富をその手に集中して、巨大化と多国籍企業化の道を進むとともに、日本政府をその強い影響のもとに置き、国家機構の全体を自分たちの階級的利益の実現のために最大限に活用してきた。国内的には、大企業・財界が、アメリカの対日支配と結びついて、日本と国民を支配する中心勢力の地位を占めている。

 出ました。 国家独占資本主義。共産党の名文句である。できれば、志位さんに歌舞伎の格好をして、「アッ、国家独占資本シュギーッ!」と決めてもらいたい(大向こうから「独占屋ッ!」「カイキュートーソーッ!」などと声がかかるともっと楽しい)。

 おれはユネスコ無形文化遺産に登録すべきなのは、お神楽や文楽なんかではなくて、日本共産党じゃないかと思う。

 それにしても、おれには少数の大企業が日本政府をその強い影響のもとに置いているようには特に思えいないし、「階級的利益の実現」の階級って、今の時代、何を指しているのだろうか。労働者さんと、社長さん、株主さん、投資家さん(生命保険をかけている人は生命保険会社を通じて投資家さんである)だろうか。課長さんはどの階級なのだろうか。

 「大企業・財界が、アメリカの対日支配と結びついて、日本と国民を支配する中心勢力の地位を占めている」。おれは初めて知った。不徳の致すところである。

 毎度思うのだが、マルクス主義というのは一度ハマるとよほど磁力が強いのだろう。あらかじめ存在する論、あるいは論理のフレームワークに現実を無理やり当てはめたくなるらしい。それはマルクス主義の悪癖だとおれは思っている。上でいうと、「独占資本主義」「階級的利益」なんていうところ。まあ、部分的には「確かにそうだ」というところがあったとしても、一面的だからいろんな要素を取りこぼしてしまうし、その結果、施策がかえってまずい結果に陥ったりする。特に人間の心の動きというものをまったく顧みないのがよくないところだ。

 ソ連の話。

レーニン死後、スターリンをはじめとする歴代指導部は、社会主義の原則を投げ捨てて、対外的には、他民族への侵略と抑圧という覇権主義の道、国内的には、国民から自由と民主主義を奪い、勤労人民を抑圧する官僚主義専制主義の道を進んだ。「社会主義」の看板を掲げておこなわれただけに、これらの誤りが世界の平和と社会進歩の運動に与えた否定的影響は、とりわけ重大であった。 

  ソ連と一緒にされていろいろ迷惑を被ってきたという気持ちが強いのだろう、日本共産党は。被害者意識が滲み出ている。

民主主義的な変革は、労働者、勤労市民、農漁民、中小企業家、知識人、女性、青年、学生など、独立、民主主義、平和、生活向上を求めるすべての人びとを結集した統一戦線によって、実現される。統一戦線は、反動的党派とたたかいながら、民主的党派、各分野の諸団体、民主的な人びととの共同と団結をかためることによってつくりあげられ、成長・発展する。当面のさしせまった任務にもとづく共同と団結は、世界観や歴史観、宗教的信条の違いをこえて、推進されなければならない。

 日本共産党は好きだよなあ、統一戦線。 統一して戦うイメージが好きなのだろう。「当面のさしせまった任務にもとづく共同と団結は、世界観や歴史観、宗教的信条の違いをこえて、推進されなければならない。」って、その任務は誰が定めるのだろう。「世界観や歴史観、宗教的信条の違いをこえた共同と団結」なんて裏を返せば全体主義、統制主義じゃん。

 そして、やっぱり最後に出ました。生産手段の社会化。

 生産手段の社会化は、人間による人間の搾取を廃止し、すべての人間の生活を向上させ、社会から貧困をなくすとともに、労働時間の抜本的な短縮を可能にし、社会のすべての構成員の人間的発達を保障する土台をつくりだす。

 生産手段の社会化は、生産と経済の推進力を資本の利潤追求から社会および社会の構成員の物質的精神的な生活の発展に移し、経済の計画的な運営によって、くりかえしの不況を取り除き、環境破壊や社会的格差の拡大などへの有効な規制を可能にする。

 生産手段の社会化は、経済を利潤第一主義の狭い枠組みから解放することによって、人間社会を支える物質的生産力の新たな飛躍的な発展の条件をつくりだす。

 ・・・わけないじゃん。この人たちはそれこそソ連邦や1980年代以前の東ヨーロッパをどうみてきたのだろうか。生産手段の社会化なんて、凄まじい官僚主義、中央集権になって、リーダー層(という階級?)のもと、多くの人がそれこそ奴隷労働になるのが目に見えてるじゃん。やる気なしの陰気なダラダラ仕事。ヤダネ。ゴメンコームルヨ!

 いやー、ひさしぶりに綱領読んで、お腹いっぱいです。もう結構です。