わけのわからないタイミングでわけのわからないことを思いついてしまうタチで、昨日、ふと「恋というけれど、要は発情ではないか」と考えた。発情を文化的なオブラートに包むと恋という美しい言葉に変わる。しかし、人間に発情という肉体/神経回路/脳内物質的な衝動がなければ、恋というものも存在しないのでははないか、とまあ、そんなことを考えたのだ。
試しに、「恋」の入るいろんな言葉を「発情」に置き換えてみよう。
発情は思案の外
おれなんぞまったくその通りであって、特に若いうちは意外なときに意外な「恋」をしてしまって難渋したことがある。
「初恋」というのは何かこう、甘酸っぱく、初々しく、可愛らしい印象だが、こんな質問を投げかけるとどうなるだろう。
「初発情の人は誰ですか?」
テレビのぬるいトーク番組も、このくらいの切り込み方はしてもらいたい。
老いらくの発情
いやまあ、そういうこともあるだろう。たまに嘶く(いななく)というやつですね。
恋女房という言葉もあって、昭和の少し湿ったにおいがあって結構なものだが、
発情女房
なんだろうか、この困った感じ。見てはいけないものを見てしまったような。
昔あった可愛らしい映画「小さな恋のメロディ」も大変なことになる。
小さな発情のメロディ
ああ、何かやはり汚してはならないものがこの世にはある、という気もしてきた。申し訳なひ、申し訳なひ。