外来種と感じ方の転写

 

  日本語タイトルの通りの内容で、最近読んだ本のなかでも出色であった。

 生態系と在来種、外来種の関係を数多くの取材や論文から考えるもので、目からウロコの話も多かった。

 外来種によって生態系が破壊される、だから外来種は駆除しなければならない、という主張をよく見かけるし、役所方面や国際ナンタラカンタラという公的な機関もそういう方向で動いている。

 しかし、実際には生態系が先にメタメタになって、そこに外来種が広がるとか、外来種が入ってきたことによってかえって生態系が多様になって弾力性(レジリエンスだっけ?)が高めることも多いという。

 また、外来種か在来種かという分け方自体も結構恣意的であって、たとえば、稲は外来種だろうか、それとも日本に来て何千年と経っているから在来種だろうか。外来種としたら、これほど日本の自然の姿を変えた植物もいないわけで、そのおかげで滅びた動植物もいれば、かえって反映した動植物もいるだろう。

 著者の大きな考え方は、自然というのはいきあたりばったりで、そのとき、そのときの状況によっていろいろ変化する。在来種だろうが外来種だろうが、自然にとっては関係ない、形を変えながら自然(あるいは生態系)は思われている以上に貪欲に続く、というものだ。おれもそんなふうに思う。

 外来種に対するキビしい目線というのは、実は人間社会における外国からの人の流入が自然の捉え方に転写されたものではないかと、おれはニラんでいる。これまで比較的似た習慣、反応のなかでいられた社会に見た目も嗜好も習慣も違う人々が入ってくる。しかし、あからさまに排外主義を唱えるのも勇気がいり、なんとなく今はそういう主張はよろしくないという雰囲気もある。それが、外来種によって既存の生態系が破壊されつつあるとか、在来種との交雑が進む(人間に置き換えるとどういうことか考えるのも一興だ)という話になると、なにせ自然界の話であるからして、おおっぴらに排外的なことを言える、わめける、主張できる、とまあ、そういう面もあるように思う。本人ははっきり意識していないかもれないが。

 在来種か外来種かなんて、自然が決めるのではなく、人間が決めているものではある。