美術作品とデジタル化

 不思議な記事を読んだ。

 

mainichi.jp

 そもそもは大阪府所蔵の美術作品が地下駐車場に置かれていた(放っぽりだしてあったという感じか)ところから始まり、じゃあ、それらの作品をどうするか、という専門家らの会合が行われたということのようだ。

 府の特別顧問の上山信一という人が「デジタルで見られる状況にしておけば、(立体作品の)物理的な部品は処分してもいいというのはありえると思う」と言い、それに対して山梨俊夫氏(前国立国際美術館館長)、鷲田めるろ氏(十和田市現代美術館館長)が「裏付けとして現物を持っていることは必要だ」と反論したという。

 おれには奇妙な議論に思える。デジタル化すれば現物作品は処理してもいいのでは、という上山氏の意見も奇妙だが、美術の専門家である山梨氏、鷲田氏の「裏付けとして」現物を持つべき、という意見も奇妙だ。

 映像など、もともとがデジタル化されている作品は別として、現物が存在する作品をデジタル化したデータは、当然ながら美術作品そのものではない。現物には、たとえば絵画なら絵筆による絵の具の盛り上がり、筆の運びによる凹凸がある。それはデジタルデータでは感じ取れないものだ。

 いやいや、ちょっと話が違うな。たとえば、おれと、おれの写真が別物であるように、美術作品と、美術作品のデジタルデータは別物である。あるいは、生で見る芝居と、芝居のテレビ中継では見る側で体験している事柄がまったく異なる。テレビで見る人は芝居そのものを見ているわけではなく、芝居の「中継」を見ているだけである。

 絵の場合、なまじ絵の見た目と、デジタルデータ化したものの見た目が「似ている」から変な勘違いが生まれるように思う。「似ている」ということはそのものではない。デジタルデータの解像度が上がったせいで、かえって変な誤解が生まれているのかもしれない。

 大阪府の放っぱらかしになっていた美術作品がどのくらいの価値のものなのかは知らない。マーケットで売れないようなものなら、もしかすると処分ということはありえるのかもしれない。美術作品だからといって、全て保存すべきというのは違って、価値のある美術作品は保存すべきというのが正しいと思う。

 おれが違和感を持ったのはデジタルデータを作品現物と等価のようにとらえる考え方だ。それは違う。