美食家(続)

 前回、美食家というのは何なのだ、そもそも美食って何なのだ、という話を書いた。
 で、つらつら考えるに、美食が、単にうまいものを食って喜ぶ、ということではないのは、どうも芸術性ということに関係ありそうだ、と思えてきた。
 素材を吟味し、手間ひまをかけて調理し、しつらえに凝り、出すタイミングに気を配る、等々、ある優れたバランスを生み出すために技と知識とセンスと理論を活用する、そうした料理の微細な部分を感じ取る、それが美食ということではないか。だとすれば、個人的にいくら美味いと感じるとしても吉野家の牛丼を食べるのは美食とは言えないわけである。
 そういう意味では、美食は美術や音楽と並べて考えることができる。

美食 美術 音楽

 ただ、混乱しやすい原因のひとつは、生物としての人間は美術や音楽なしでも生きられるけれども、飲食なしでは生きられないところにある。

芸術方面   | 美食 美術 音楽
生命維持方面 | 飲食 ―  ―

 この生命維持活動としての飲食に「うまい、まずい」という感覚的評価が含まれ、美食ということと混乱してしまう(というか、おれが混乱している)らしい。
 また、美術や音楽が大衆化の流れの中で範囲を広げたのに対し、「美食」という言葉には伝統主義、クラシカルな印象がある。言ってみれば(西洋で言うならば)19世紀どまりというふうである。食自体は大衆化していて、かなり美味いものもそこそこのお金を出せば食べることができるし、おそらく戦前とは比べ物にならないくらい「美味いものを食べにいく」ことが普通になっている。しかし、カレーライスやカツ丼はあまり「美食」の対象とされない(いわゆる「名店」のものは例外かもしれないが)。「美食家」という言葉の奇妙なふうは、もしかすると、ここらの古くささと頑迷さの故もあるのかもしれない。
 ところで、美術や音楽と対比していてふと思いついたのだが、現代美術や現代音楽があるのなら、現代美食というものもあり得るのだろうか。テーブルに皿とナイフ、フォークだけ用意しておいて、4分33秒間、料理を出さず、その間に湧き出る唾を味わえ、とか(ジョン・ケージの「4分33秒」のパロディ)。あ、レストランじゃ、4分33秒間待たされるなんて普通か。