北大路魯山人

 白崎秀雄「北大路魯山人」を読んだ。最近では出色の読み物であった(1985年の本だけど)。

北大路魯山人〈上〉 (ちくま文庫)

北大路魯山人〈上〉 (ちくま文庫)

北大路魯山人〈下〉 (ちくま文庫)

北大路魯山人〈下〉 (ちくま文庫)

 戦前〜戦後に名を轟かせた書家、陶芸家、画家、美食家(って肩書きなのか?)の北大路魯山人についての評伝である。読みながら感じる複雑微妙な起伏を記すのは難しい。ましてや「魯山人とはこういう人である」とまとめるのは無理である。思いつくままに書く。
 魯山人は世間一般の通念からすればとことん嫌な男である。裕福な商家の財産を乗っ取ろうと娘をかどわかして強姦し無理矢理結婚する、鳴き声がうるさいと言って子猫を踏み殺す、金を払わない、養父母を召使いのごとくこき使う、実母や妻をサディスティックにいびる、妊娠中の妻を放り出して朝鮮に渡る、料理がまずいと作ったものを平手打ちで殴る、女中を弄んでは飽きると捨てる、権力者には取り入る、利用価値がなくなるといかに親しい人間であっても手のひらを返したように関係を切る、等々。
 一方で、端から見ると嫌らしい行為の多くが、美あるいは快の追求の故である。良い物を見るために所持者の金持ちや美術商に取り入り、美味くて美しい料理を食ってまた提供するために使用人を足蹴にし、情欲を満たすために女を手篭めにする。そうした美と快の貪婪な摂食が夥しい魯山人の作品に結実しているようだ。
 インターネットとは便利なもので、Googleの画像検索で「魯山人」と検索するだけで彼の作品を並べて見ることができる。

→ Google画像検索「魯山人」

 おれは陶磁器を見るのは好きだが別に知識はなく、審美眼は怪しいものである。しかし、魯山人の作品は美しいと思う。古典に敬意を払いながらも、自由で、生きていて、風趣があると思う。特に食器は料理を載せたときに両者が引き立て合うように作られており、盛られたときによりいっそうの美しさを見せる。
 魯山人はほとんど教育らしい教育を受けていない。彼の審美眼はひたすらに良い物を集め、愛玩し、実作するなかで鍛えられたもののようだ。魯山人は良い物を得ると、家でほとんど抱え込むようにして楽しんだという。おそらく、観念的な事柄(例えば、階級だの民衆芸術だの)は彼の作品にほとんど介在しておらず、作品との直覚的な対話だけがあっただろう。こんな一節がある。

 平野(稲本註:平野雅章)が、ふたたび魯山人の許へ戻ってからよく経験したのは、次のようなことである。魯山人にいわれて、ともにテレビでたとえば歌舞伎の仙台萩などを見る。魯山人はしきりに泣いているが、見終った後にきまって平野に感想をきく。平野が種々、書物でよんだようなことも含めて考えをのべる。すると魯山人は、安楽椅子の中でいたたまらぬように身体を上下させながら、
「自分の言葉で喋れ!」
 と、肘掛の部分をたたきながら、怒った。

 己の目で見ろ、借りてきた観念や知識ではなく己自身の感覚を育てろ、ということなのだろう。

 魯山人の生い立ちは異常である。京都の上賀茂神社の社家だった父は、母が魯山人を身ごもっているときに自殺した。噂では母が不逞を働き、子供(すなわち魯山人)を宿したことが理由だったともいう。その自殺の様子は猟奇的で、まるで横溝正史推理小説のごとくである。

 明治十五年十一月二十一日。
 この日の未明に、上賀茂村では半鐘が鳴りわたり、藤ノ木町の古い社家の家に、ほとんど村中の人が群がって、罵りさわいだ。
 そこの庭の隅の、深紅に染った井戸の水の中に、白装束の男が仰向けになっている。家の中は、ところどころ雨漏りのする天井裏にまで、血がはね上っていた。

 その最後は無惨である。下痢と失禁を繰り返し、特急の一等車両でも座談会で呼ばれた料亭でも漏らし、悪臭を放った。多くの借金を抱え、かつてにぎわった鎌倉の住家は訪れる人も少なく、荒れ果てた。ほしいままの美食の祟りか、多数のジストマが肝臓に寄生して肝硬変を起こし、昭和三十四年十二月二十一日、公立病院で死んだ。