敷衍

 虎の威を借る、ということがよく行われる。典型的なのが例の「視聴者を馬鹿にしているとしか思えない」という類いの言い回しだろう。世論調査したわけでもなし、馬鹿にされていると感じたのはあくまで自分なのに視聴者という虎の威を借りてしまう。他には「我々、庶民は」という言い回しもしばしば虎の威的だし(妬みと、民衆こそ正義という虎の威が入り交じっているイヤらしい表現である)、「ナンタラカンタラ国民会議」という名称もそうだろう。
 虎の威というのは借りている本人も気づかないことが多いかもしれない。なんで借りてしまうんだろうなぁ、とふと考えて、ひとつにはついつい敷衍してしまうということがあるんじゃないかと思い当たった。
 例えば、たまたま会ったアメリカ人のおばちゃんに親切にしてもらうと「アメリカ人は親切だ」と敷衍してしまう。ある韓国人が歴史について強引な主張をすると「韓国人は歴史をねじ曲げている」と敷衍してしまう。なんでそんな雑な判断(敷衍)をするのかなぁ、と思うのだが、人間はついついそういうことをやってしまう生き物なのだ(などというまとめ方がつまり敷衍ですね)。おれが日本人論というものをたいがい疑惑のマナザシで眺めているのも同様な理由である。
 なぜこういう雑な敷衍が行われるかだが、あくまで思いつきだけれども、もしかすると頭の中での情報処理に関連しているんではないか。たとえば、日本人とあまり接触のない外国人がおれに会ったとする。彼(か彼女か)の頭の中では「稲本 属性:日本人 男 中年 頭が悪そう ・・・」というふうに整理される。で、あくまで稲本の属性が日本人というだけだったのに、うっかりすると日本人グループの属性に稲本の属性がすり替わってしまう。「稲本 属性:日本人 頭が悪そう」だったのだが、日本人グループという集合におれが入るとも整理できるものだから、「日本人 属性:頭が悪そう (例:稲本)」というふうに変換されてしまうのだ。いかにも粗雑な変換なのだが、注意深く考えるというのはなかなか骨が折れるものだから粗雑な変換でヨシとしてしまう、あるいは粗雑であることにすら気づかないでいる。そういうことではないか。
 ……ここまで書いてきて、急に心配になってきた。あまり日本人と接触のない外国人がたまたまおれと会うと「日本人は馬鹿で間抜けで能無しで怠け者でオタンチンでいいとこ出来のいい猿だ」と敷衍してしまうんじゃなかろうか。ゴメン。