まとめにかかる

 まとめにかかるのが好きな人というのがいて、例えば、「一億総ナントカ時代」などといきなり言い出して、こちらを驚かす。


 試しに、Googleで「一億総」と検索して、出てきた言葉を並べてみよう。


一億総白痴化
一億総中流
一億総学力低下時代
一億総億万長者
一億総うつ時代
一億総付加価値時代
一億総ジャーナリスト化
一億総カメラマン時代
一億総犯罪者
(etc.、etc.……)


 これらがもし当たっているなら、一億揃って白痴で、中流家庭で、学力低下し、でも億万長者になって(わしらはフォレスト・ガンプか!)、鬱となり、付加価値を求め、ジャーナリストとしてカメラマンの仕事をし、犯罪に手を染める、と、そういうことになる。どうでもいいが、疲れる。


 個人的には、こういう言い回しは好きでない。雑で、大仰で、どこかヒステリックな感じがする。
 実際は、もちろん、日本人といっても、性向、環境、能力、職業、バックボーンはいろいろであって、いっそ、一億総多様化時代と呼んだらどうかと思うくらいだ。


 まあ、「一億総〜」というのは、大げさに言って耳目を集めようというセコい手口なんですがね(バレてんだ、ザマーミロ)。


 同じまとめにかかる手口に、「ナントカ列島」という言い方もある。
「げんき列島」とか、「おたっしゃ列島」といった、NHK的おはよう感覚のものもあるが、一方で、「金融腐蝕列島」、「感染列島」などと脅かしにかかる向きもある。


 こういうまとめにかかりたがる感覚というのは何なのだろうか。「進め、一億火の玉だ!」などと吠えていたと思ったら、あっという間に「一億総懺悔」に切り替えたような、一種の文化であろうか。


 その根っこには、今日の文章でも使ったが、自分の文章なのにわざわざ「個人的には」とか、「わたし自身は」と断るようなメンタリティがあるようにも思う。わたし自身はそう思う。

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「今日の嘘八百」


嘘七百七十一 低い出生率が続き、人口が一億人を切ったとき、キリ番の故人には残念賞が与えられる。