一昨日、自由律俳句について書いた(id:yinamoto:20060120)。
「咳をしても一人」、「すばらしい乳房だ蚊が居る」など、五七五も季語もいらんもんねー、と決めてしまった俳句のことである。
自分でも、いくつか作ってみた。
司馬遼太郎がポルノ映画を見ている
これなぞ、どうだろう。
司馬遼太郎にしようか、新渡戸稲造にしようか迷ったのだが、司馬遼太郎のほうが句が味わい深くなる。
新渡戸稲造の時代にポルノ映画があったかどうかは知らない(たぶん、あったろうな。表現活動における人間の根元的欲求だから)。
ま、しかし、そんなことからも自由になろうと思うのだ。
作者があまり解説じみたことを書くものではないのだろうが、わたしはこの句で司馬遼太郎を引きずり下ろしたいわけではない。
むしろ、その端然としたたたずまいを利用させてもらった。
どんどん行きましょう。
慎太郎が懐かしく見る障子の穴
知っている人にしか、わからないだろうな。
などと言っているわたしも、かの小説を読んだことがない。
実は、
慎太郎五十年ぶりの破れ障子
とどちらにしようか迷ったのだが、やはり先の句のほうが、ものやわらかでいいようである。
すでに気づいた方もいるかもしれないが、作家のイメージを利用して、他の言葉と結びつけ、ある(心象)風景を作ってしまう、というのが、ここでやっている手口だ。
俳句で個人名を使うというのは禁じ手に近いのだろうが、そこからも自由になろうと思うのである。
ああ。自由という言葉は便利だ。
南仏で水上勉
困った情景を表現してみようと思った。しかし、水上勉の本を読む、と解釈してもらってもかまわない。
何しろ、とにかく自由なのである。
どうも、いろんな人の怒りを買いそうだ。
次のは昔々に作った句なのだが、忍術で逃げるときに便利である。
咳をしたら二人
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