わたしは恥ずかしがり屋で、何しろ、生まれたとき、産院の看護婦さんに抱き上げられただけで顔を真っ赤にしたというくらいだから、恥ずかしがり屋の頭に「生来の」と付けるべきだろう。
自慢になることではない。本当は、こうやって自分が恥ずかしがり屋だと告白するのも恥ずかしいのだ。
恥ずかしくて、恥ずかしくて、今、この文章を、イヤン、と上半身をくねらせながら書いている。
喜怒哀楽というけれども、中に「恥」が入っていないのはなぜだろうか。恥ずかしさというのは、もちろん、理知的な反応ではなく、感情の一種、それも、しばしばかなり強く、コントロールしづらいものなのに。
恥ずかしさといっても、いろいろな種類がある。
武士道方面の人々の「恥を知れ、恥を!」などという威勢のいいのもあれば、愛国方面の「日本の恥だ!」なんていう一刀両断的なのもある。
わたしがしばしば覚える恥ずかしさはもっと卑小なもので、例えば、店のレジやなんかで1万円札を出したとき、「1万円入りま〜す!」などと言われると、なぜか恥ずかしい。
ああン、もう、やめてよン、などと身をくねらせてしまう。アヤシの男である。
両替の用意か何か、向こうにも都合があるんだろうけれども。
自意識過剰なのだろう。それもまた恥ずかしいことだ。
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「今日の嘘八百」
嘘七百七十 キジがキビダンゴを欲しがった理由がどうしてもわかりません。