水に指で字を書いてる

 芝居でも、スポーツでも、演芸でも、生で見るのが一番感動が深い、面白みが大きい、というのは、多くの人が認めるところだろう。というより、ライブは記録されたものとは別物と考えたほうがいいように思う。


 映画は最初から加工・編集が前提だから、生はありえない。
 音楽はその点、加工・編集を前提にする場合と、生で勝負、の両方があって、中にはスタジオでは素晴らしい音楽を作るのに、ライブではド下手、というミュージシャンもいる。中間的なジャンルだと思う。


 桂米朝の対談集「一芸一談」(ちくま文庫)を読んでいたら、藤山寛美との対談で印象的なくだりがあった。


 藤山寛美松竹新喜劇の中心人物で(藤山直美はその娘)、1990年に死去。これが最後の対談だったという。


米朝 (……)私はね、色紙を出されると、よう「一期一会」と書きまんねん。あれはね、もうどないに、もういっぺんあれと同じことやろうと思っても絶対できへん。同じことでけへんのやし、ある日の、ある時間の、その会場におけるそのお客さんと私との間に非常にええ雰囲気ができた、これが芸やと思うてまんね。これはVTRで撮ろうが録音テープに取ろうが、別のとこで別の人が聞いたら伝わるものやおまへんねん。
寛美 なるほど。
米朝 同じお客さんが集まってくれて同じ芸を私がやったとしても、日にちが変わり、その日の体調が変わりしたら、もういっぺんあの舞台は再現はできませんねん。ようなることもあるかもわからんけど、「ええなあ」と思った、あんな感激はやるほうももうない。そやから、その時に……。
寛美 「一期一会」。


 生で演じられるもの、行われるものには、ある日ある時ある場所だけの特別な瞬間というのがある。それを体験したときに、感激や、コーフンや、幸福感を味わえる。


 いや、芝居、スポーツ、演芸に限らず、誰かといるときでも同じで、人とある時間にある空間を共にしているときだけの、特別な感覚というものが、確かにある。


 その特別な感覚を一語で表す言葉を思いつかない。わたしが馬鹿なのか、それとも言葉がないのか。
 もし言葉そのものがないのなら、多くの人が体験しているものだろうに、不思議である。


 ま、ないんなら、わたしが「ほげぎゃぎゃげろげろ感」とか、勝手に言葉を作ったっていいが。


米朝 来てくれはったお客さんがその日、非常にいい雰囲気ができ上がったら、それはその日のお客さんは運がよかったので、同じ条件で、「つまらん芸やなあ」と思ってお帰しした時かてあるわけやし。そやさかい、その時その時、その日の芸はその日しか存在しないと思うてますねんで。
寛美 そやけど、寂しおまんな。
米朝 そやから残らしまへん。絵描きさんやとか彫刻家は残りますけど。
寛美 私らの商売は水に指で字を書いてるようなもので、書いた時は波紋が残るけども、流れてしまえば消えますわな。
米朝 そうです、そうです。
寛美 わしらはミズスマシみたいなものだっか。
米朝 ミズスマシか…。
寛美 何ぼ走っても、流れてる流れと同じとこを走ってるわけだっか。
米朝 同じとこを走ってる。水はどんどん変わっていくのや。
寛美 そやから、力尽きたらミズスマシも流されるということだっか。
米朝 そうです。沈んでまうやわかりまへんな。
寛美 そんなはかないものだから燃焼できまんのか。
米朝 そうです。そない思います。はかないものやさかい。


 藤山寛美の「私らの商売は水に指で字を書いてるようなもので、書いた時は波紋が残るけども、流れてしまえば消えますわな」というのは、実に上手い表現だと思う。
 演者はその瞬間に波紋を描き、観客はその波紋を見、演者は波紋を見ている観客を感じる。


 そういう美しい表現をした後で、「わしらはミズスマシみたいなものだっか」とおどけてみせないと済まないのが、藤山寛美だろうか。
 しかし、その後でまた、「何ぼ走っても、流れてる流れと同じとこを走ってるわけだっか」と心を突くようなことを言う。


 対談のこのくだり、米朝と寛美の興がどんどん乗っていくのが感じられる。数え切れない数の舞台を経験してきた二人。彼らが舞台で時に観客と共有する高揚感を、このときにも二人で味わったのではなかろうか。


一芸一談 (ちくま文庫)

一芸一談 (ちくま文庫)

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「今日の嘘八百」


嘘七百二十七 民意をひたすら問い続ければ、そのうち、税金を全てナシにできる。