近頃の本には、疑問文にして読者を釣り上げようとする書名が多い、という話の続き。
著名な小説のタイトルを疑問文にしたらどうなるだろうか。
「老人はなぜカジキの骨を曳いて港に帰ってきたか」
悪くはないが、名作にはほど遠い感じがする。
夏目漱石の「それから」は、これでどうか。
「代助はいかにして赤い街を電車で走り回るに至ったか」
ちょっと心理サスペンス風になった。
まあ、漱石先生の小説は、「こころ」や「明暗」のように、心理サスペンスと言えないこともない作品が結構あるような気がしないでもないこともないのだったりしない、かなあ(申し訳ない。言ったことに自信がない)。
「余はいかにしてドイツ女を生ける屍と変じせしめたか」
もちろん、鴎外先生は、こんな物欲しげなタイトルはつけないだろうが。
話はそれるが、わたしは「舞姫」より、その後日談とも言うべき「不振中」(違う、それはわたしの現状だ)「普請中」のほうが隔靴掻痒、じれったく、いかんともしがたい感じがして、好きだ。もしかして変態なのかしらん。
同じ鴎外先生の「渋江抽斎」は――さすがに無理。
川端康成、「雪国」。
「トンネルを抜けるとそこはどんなところだったか」
違う。そんな小説ではない。
今年が千年紀、という話の割には今ひとつ盛り上がっていない「源氏物語」。
「光源氏はなぜモテるのか」
こういうタイトルの新書を出しかねないから、近頃の出版界はオソロシイ。
ドストエフスキー「カラマーゾフの兄弟」――も、さすがにわたしの手には負えない。
簡単なのもある。
エラリー・クィーン「Yの悲劇」。
「犯人は誰か」
まあ、こんなことを言い出すと、たいていの本格推理小説がそういうタイトルになってしまうが。
「なぜ誰もいなくなったか」
どんどんくだらなくなってきた。申し訳ない。
「おれは馬鹿か」
-
-
-
-
-
-
-
-
- -
-
-
-
-
-
-
-
「今日の嘘八百」
嘘七百十六 笑ったら福が来たが、笑い終えたら去ってしまいました。