和声学と科学技術文明

 我ながらすごいタイトルを書いたものである。何だか、大著をものしたみたいだ。


 最近、また音楽をやってみようかという気になってきている。


 手始めに、「よしを」のBGMを作り替えてみた。


→ 書「よしを」


 もっとも、ありものを組み合わせて、少し音を載せたり、いじったりした程度で、これでは「作った」というほどでもない。


 以前はバッハの曲を使っていたのだが、出来がよくなく、変えたいとは思っていた。しかし、なかなか手をつけられないでいた。


 音楽ソフトでいろいろいじっているうちに、ふと思い至ったことがある。
 おそらく、他でもとうに誰かが書いていることであろうし、もしかしたら、しかるべき分野の人々にとっては常識ですらあるのかもしれない。


 が、“自分で”思い至った、ということがウレシイので、書く。


 西洋音楽に和声学というものがある。


 和音の構成とそのつながり、あるいはメロディとの組み合わせ方についての理論である。


 例えば、


→ (音が出ます)


 この「気をつけ」「礼」「直れ」の和音も、恐るべきことに和声の理論に乗っ取っている。知らなかったでしょう?
 ドミソ(気をつけ)〜ソシレ(礼)〜ドミソ(直れ)というつながりで、「気をつけ」のところがI(いち)の和音、「礼」のところがV(ご)の和音、「直れ」のところが再びIの和音だ。
 I - V - Iと表記される。


 特に、後半のV - Iのつながりは自然に終止するパターンとされる。


 とまあ、そういうようなことがダバダバダバダバ、と複雑に体系化されているのが和声学である。
 わたしは、基本的なことくらいしか知らない。興味ある方は、次のページでも覗いて、目眩を起こしていただきたい。


→ 和声 - Wikipedia


 漠然とした知識に基づいて書くので、間違っていたら指摘していただきたいが、西洋音楽の和声は、バッハが大きな一歩を踏み出したらしい。
 そこからどんどん複雑・高度化していったのだと思う。


 和声学のすごいところは、これを学んで使えば、ある程度、誰でもそれらしい曲を構成できることだ。例えば、さっきの例で言うと、V - Iと和音をつなげれば、「あー、こりゃ、きれいに終わりましたネー」というふうに感じさせることができる。
 あるいは、すでにある(西洋音楽的な)曲を分析してみせることもでき、その点で、力学、あるいは物理法則に比することができる。


 力学の理解がなければ高層ビルが実現できないように、ポップスも含めて、現代の西洋音楽系の音楽も、和声学がなければ実現しなかっただろう。
 あるいは和声学的な音の捉え方がなければ、今、我々が耳にしているであろう音楽はだいぶ違ったものになったはずだ。


 体系を学び、使えば、誰でも同じ結果を得られる、という点で、和声学は科学技術文明的だと思う。法則があり、師弟間の秘伝ではなく公開されており、利用すれば法則に見合った音の感覚を生み出せる(もちろん、表現の巧拙はある。同じことを学んでも優れた建築家とダメな建築家がいるようなものだ。言いたいのは、誰にでも開かれ、誰にでも利用可能な理論体系になっている、ということである)。


 バッハが活躍したのは18世紀前半で、ニュートンの1つ後くらいの世代である。


 西洋で17世紀から18世紀頃に科学技術的思惟とでもいうべきものが生まれ、その流れに音楽も乗っかり、西洋諸国の植民地拡大とともに、世界に広がったということなのだろうか。
 興味は湧くが、とてもわたしの手には負えない。


 ただ、一方で落とし穴もあると思う。


 ハモる、という意味での和声は、別に西洋音楽の専売特許ではなく、他の地域でも古くからあったろう。
 また、日本の伝統音楽のように、和声という概念や感覚がほとんど存在しない音楽もある。


 ただ、西洋音楽的な和声の感覚があまりに強力で、かつ居心地よいために、西洋の和声に乗っ取っていない音楽の感覚が押しのけられたり、稚拙と片づけられたり、あるいは西洋音楽的な和声感覚に塗り替えられてしまったりするケースがあると思う。


 ちょっと考えてみれば、その愚かさはすぐわかることで、例えば、江戸時代以前の大工は一種の力学的なノウハウは持っていても、力学自体は知らなかったろうと思う。


 では、大工のノウハウに基づいて建てた茶室が、高度な力学によって可能になった超高層ビルに劣るかと訊かれれば、それはあまりに馬鹿馬鹿しい比較だろう。そもそも“違う”ものなのである。


 力学も、和声学も、便利ではある。しかし、だからといって、その結果としての建築物や音楽が優れている、ということにはならない。


 絵画でも同じようなことが言える。


 江戸時代以前の日本には油絵の具がなかったから、西洋風の細部まで緻密に描き込むような絵画は生まれなかった。
 遠近法は限られた形でしか理解されていなかったから、いわゆる“写真のような”写実的な絵画は生まれなかった。


 しかし、墨や岩絵具のような画材だったからこそ、筆勢や、偶然生まれた色合いを利用するような表現法や、絵の楽しみ方が生まれたわけで、優れた表現者は(しばしば何世代もかけて)“手元にあるもの”ならではの優れた可能性、表現法を引き出すのだと思う。


 何だか話がやたらと広がってしまったが、簡単にまとめると、


1. 西洋音楽の和声学は西洋の科学技術的思考法に乗っ取って体系化されたのだと思う。誰でも利用できるので便利である。
2. だからといって、一部の人が信じ込んでいるように、西洋音楽が他に比べて高度だとか、“正統”だとかいうことにはならない。


 とまあ、そんなことを言いたかったのかしらん。ああ、疲れた。

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「今日の嘘八百」


嘘七百十七 実際には、表現分野についての価値観は文部科学省が決定するのであります。