浮世絵に、春画という、男女のあられもない様を描いたものがある。
あれ、見るたびに、江戸時代の人はああいうものでコーフンできたのだろうか、と思う。
もっとも、わたしがそんなふうに思うのは、ポルノに溢れる現代に生きているからかもしれない。
時代、時代によって、その時代ならではのポルノ状況というものがある。
わたしが中学生だった1970年代後半〜1980年頃は、ビニ本(びにぼん)なるものの全盛期だった。
ビニ本とは、ビニール本の略で、いろんな種類のビニールが載っているのである。嘘である。
ポルノ写真の本をビニールで包装したもので、ビニールを破らないと中を見られない。その破るという行為が、イケナイコトヲシテイルという感覚を高め、コーフンをいや増すのであった。
中学生というのは萌え出ずる春の頃でもあり、友達とこっそり見ながら、たいそうコーフンしたものである。
しかし、あれはポルノに対する取り締まりが今よりはるかに厳しかった時代だからコーフンしたのであって、刺激に慣れた今見たら、大した写真ではないだろうと思う。
モデルも、オバハンが多かった記憶がある。
わたしが中学生の頃にオバハンの写真でもコーフンできたように、江戸時代には江戸時代のポルノ状況というものがあり、当時の人は春画でもコーフンできたのだろう。
人々のポルノの取り扱い方も、コーフンの度合いに関係しているように思う。
江戸時代の頃、人々の間で春画がどういうふうに扱われたのかは知らない。しかし、おおっぴらにそこらへんに張り出すものでもなかったろう。
「えへへ。実はね、いいものが手に入ったんです。特別にお目にかけましょう」と、こっそり見せたり見せられたりしていたんではないか、と想像する。
あるいは、セーショーネンが戸棚か何かの裏に隠しておいて、ひとりになったときにこっそり見たり。
そこらへんはわたしの世代の中学時代と変わらない。
よく知らないが、今の中学生もあまり変わらないのではないか。単に、隠すものの内容が変わっただけで。
こっそり見る、あるいは隠されているものを見るからこそ、コーフンする、ということもある。
どこかの週刊誌で、春画の袋綴じをやってくれないだろうか。
袋綴じを開けた現代の大人達がどのくらいコーフンするものなのか、見てみたい。
読者から大量の苦情が来そうな気もするが。
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「今日の嘘八百」