「水滸伝」を初めて読んだのは、確か、小学生だったと思う。
随分と長い物語だが、子供向けのダイジェスト版でもあったのか、それとも面白いもんだから正規の版を全部読んだのか。今となっては思い出せない。
「水滸伝」の魅力はいろいろあるが、ひとつにはあの、各巻(章くらいの長さ)の題名もあると思う。
例えば、
巻の五
小覇王 酔って銷金(しょうきん)の帳に入り
花和尚 大いに桃花村を鬧(さわ)がす
とか、
巻の七
花和尚 倒(さかし)まに垂楊柳を抜き
豹子頭 誤って白虎堂に入る
とか、題名を見ているだけで、血湧き肉躍る物語を想像させ、オノコノコの血潮をいたくたぎらせる。
こういう対句による題名の付け方は、中国の明代、清代の長編小説(三国志演義や西遊記など。今日の小説というよりは物語や講談本に近い)の特徴なんだそうで、対句にすることで、「あれやこれやと、いろいろハナシ、ありまっせ!」というたっぷり感や、縦横無尽感を生んでいるのだろう。
そこへ行くと、我が国の源氏物語は、
帚木
などと、えらくそっけない。
もっとも、これが、
四公達(きんだち) 雨夜に大いに女を語り
光源氏 伊予介の妻と密かに姦通す
では、ぶちこわしなのであって、やはり、「帚木」とか「若菜」とかが雅びでよいのだろう。
豊太郎 朋友の言に帰国を決意し
エリス 刹那に発狂す
としたり、漱石先生の「門」を、
大家 裏切りし旧友の消息を伝え
宗助 鎌倉で大いに参禅す
としたりするのも、何かこう、無理矢理血湧き肉躍らせてしまって、よろしくない。
やはり、それぞれの土地、時代、ジャンルにはそれぞれの「らしさ」というものがあって、我々はそれを知らず知らずに受け取りながら、その世界に遊んでいるようである。
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「今日の嘘八百」
嘘七百四十八 千秋楽・朝青龍×白鵬の一戦は、プロレス・ファンの血潮を一瞬のうちにたぎらせ、あっというまに冷ましてしまったという。