忠臣蔵と落語

 落語は笑うことで人間のしょうがなさを認める、という話の続き。


 立川談志は「あなたも落語家になれる 『現代落語論』其二」の中で忠臣蔵を例にとって、こんなふうに落語の特質を語っている。


あなたも落語家になれる―現代落語論其2

あなたも落語家になれる―現代落語論其2


 ……現代流にいいますと、この浅野会社は五万三千石ですから、三百人くらいの社員がいたはずです。
 しかし、そのなかで仇を討ちに行ったのは、たったの四十七人だけで残りはみんな逃げちゃった。
(中略)
 ところが勝てっこないという予想に反して、これが上手くいっちゃった。たったの四十七人で仇討ちが成功しちまったのです。(中略)“忠臣蔵”といいますと、いまだに映画に作られ、テレビでも当るし、講談・浪曲・芝居で多く演じられてきました。


 確かに、三百年前の仇討ちの話が現代でも芝居やテレビドラマでウケている、というのは、凄いことだと思う。


 その他の仇討ちの話、例えば、曾我兄弟や、堀部安兵衛(四十七士のメンバーでもある。仇討ちフリークだったのではないか)の助太刀の話はだいぶ廃れてしまった。
 理由はわからない。忠臣蔵は、一応、仇討ちの話だけれども、筋が複雑で、いろんなところにスポットライトを当てられるからだろうか。


 この主題テーマは何であるか、と考えますと、“成せば成る”ということであろうかと思います。
 人間誰しも、やればできるということです。「不可能」を彼ら四十七士は可能にしたのです。
(中略)
 それだけにその反面、仇討ちに行かなかった連中には非道かったと思います。世間の非難の集中砲火を浴びたことでありましょう。討ち入った人たちに栄光があっただけに、その反面、逃げた人たちはどれだけ世間の風当りが強かったことか、容易に想像できます。風当りどころの騒ぎじゃなかったでしょう。“あいつ逃げやがった”“逃げそうな面ァしてやがる。卑怯な野郎だ、武士の風上にも置けねえ、人間じゃねえな、犬侍奴……”


 この後も、逃げた人々に対する悪罵が延々続くが、省略。大事なのは、この後。


 さあ、ここです。討ち入った四十七士は、“よくやった”“やればできる”と、大衆の心をふるい起こさせ、芝居・映画・講談・浪花節・テレビのドラマになって、現代にまで語られ、演じられてきたのです。
 しかし、落語は違うのです。討ち入った四十七士はお呼びではないのです。逃げた残りの人たちが主題となるのです。そこには善も悪もありません。良いも悪いもいいません。ただ“あいつは逃げました”“彼らは参加しませんでした”とこういっているのです。つまり、人間てなァ逃げるものなのです。そしてその方が多いのですヨ……。そしてその人たちにも人生があり、それなりに生きたのですヨ、とこういっているのです。


 長々と引用したけれども、立川談志の落語観がとてもよく表れていると思う。


 もちろん、あくまで落語家・立川談志の考える落語、であって、落語家全てが同じように考えているわけではないだろう。


 わたし自身は、“逃げたヤツについて語る”というスタンスは好きだ。


 昔から忠臣蔵をあまり面白いと思ったことがない。まあ、酒でも飲みながらだとぼんやり見ていられるが、心が高ぶったり、ヨヨともらい泣きしたりはしない。
 共感できる人物がいないせいか、面白みのある人物が少ないせいか、それとも好きになる前に飽きちゃったのか。


 例外は、杉浦日向子の漫画くらいだろうか。討ち入りを客観的に描いていて、面白かった覚えがある。


 そのうち、仇討ちしなきゃいけなくなったら、おれも逃げよう……。


 話は変わるが、この「あなたも落語家になれる」は、真面目な落語論と、いろんな芸人の評伝・エピソードが入り混じっていて、楽しい。
 1985年の刊だから、立川談志落語協会を飛び出して立川流を立ち上げ、師匠の柳家小さんから破門された直後。生臭い話も結構あって、下世話な興味でも楽しめる。


 今は古本でないと入手できないかもしれない。


 新刊で読むなら、たぶん、「立川談志遺言大全集 11 落語論2 立川流落語論」のほうが入手しやすいと思う。
「あなたも落語家になれる」に加筆修正したもの(だと思う。いい加減でスミマセン。稲本は未読)。


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「今日の嘘八百」


嘘六百十六 人間は飼い猫をペットだと考えているが、飼い猫は人間を我が家の使用人と考えている。