講談と落語の違い

 少し前に亡くなった立川談志の落語を音楽プレーヤーに入れて時々聞く。
 落語ももちろんいいのだが、談志のやる講談がまたいいのである。「ひとり会」として出ているCDに何本か収められており、「慶安太平記」「ねずみ小僧」「小猿七之助」あたりがおれのおすすめだ。談志の荒っぽい口調(ノイズ・ミュージック的だ)には講談が合うのかもしれない。
 講談と落語の違いについて談志が何かの噺のマクラで説明していた。
 いわく、講談は四十七士を取り上げる。落語は四十七士以外の、討ち入りに参加せずに、逃げたやつを取り上げる。講談は四十七士をリッパですねえ、人間、そうあるべきです、と持ち上げる。落語は、人間、そういうときになったら討ち入りなんぞせずに逃げたくなるもんですよ、と語る。逃げたことのいい悪いは言わない。大半のやつは逃げるんだ、とそこに焦点を当てる。ここから先はおれの解釈だが、その逃げたってことに対して、「はは、そうだよなあ。わかるわかる、その気持ち」とアルアル的笑いが落語では起きるんではないか。
 談志のそういう部分の整理の仕方は見事で、落語を理論的に分解してみせたということがあの人の功績のひとつだと思う。
 一方で、談志は特徴的な語り口と、理屈では整理できない部分を混ぜ込んでいるが、センスのない者が理屈にこだわって落語をやるとロクなことにならないんじゃないか、とも思う。栄養学にばかり基づいて飯を作られても、あんまり旨くなさそうなのとおんなじである。