恥ずかしさの形

「わかる」という言葉はやや曖昧で、実は「納得」と「共感」の二種類があるように思う。


「1+1=2」がわかるというのは、「納得」のほうだろう。数学者が数式を見るたびに「うん、うん、わかる、わかるよー」と共感していたのでは、数学の発展というものは望めない。


 一方、「共感」のほうは、芝居やドラマに涙する、なんていうのがわかりやすい例だ。


「別れろ切れろは芸者の時にいうことば」と、かき口説くお蔦に、「観察したところ、芸者という者は歴史的にお金で片のつく商売とされていて、一方、現在のお蔦の境遇を鑑みるに……ハハア、こういう流れで可哀想という感情を引き起こすのだろう。うん、うん、なるほど、これは可哀想だ」などと理屈で納得してヨヨと泣く、なんてことはなかなかできない。


「気持ちがわかる」というのは、理屈を納得するのではなくて、相手と同じ感情が自分の中で呼び起こされることなのだろう。ブンガク的に行くなら、「共鳴」と書くとカッチョよく見えるかもしれない。


 じゃあ、「絵がわかる」、「音楽がわかる」、「物のわかった人だ」なんていうのはどうだ、となると、「納得」と「共感」が入り混じっているようで、だんだん難しくなる。
 あるいは、「悟った」「会得した」「開眼した」というのには、「納得」や「共感」とはまた違った部分があるような気もするが、あんまり開眼したりしたことがないので、よくわからない。


 人にわかってもらう、というとき、「納得」のほうは理詰めで説得していけばどうにかなりそうな気がするが(もちろん、お互いの我慢の限度というものもあるが)、「共感」のほうは難しい。
 せいぜい、相手の心の硬くなっている部分を解きほぐすか、相手の似たような感情の記憶を手探りで引き出すしかないのではないか。


 昨日、「笑うふたり 高田文夫対談集」(中公文庫、ISBN:4122038928)を読み返していて、谷啓の物の感じ方が、わたしとかなり共通しているように感じた。「共感」した。


 谷啓という人はかなりの恥ずかしがり屋で、ミュージシャンになりたての頃、ステージに立っている自分が恥ずかしくて、サングラスをかけて出たという逸話がある。
 確かに自分からはまわりがあまり見えなくなるだろうが、客席から見ると、大勢のバンドマンの中で1人だけサングラスをかけているものだから、かえって目立ってしまったそうだ。


 不思議な発想だが、目をつぶれば世界は消えてなくなる、というようなことなんだろうか。


「恥ずかしさ」というのは、人からどう見られるか、と気にすることから始まる。
 人からどう見られるかがやたらと気になる性分だと、恥ずかしがり屋になる。ひどいときなんかは、誰もいないのに、どう見られるかをひとりで想像して、顔が赤くなる。


「笑うふたり」より。


高田 でも、クレージー・キャッツになったら団体行動でしょ。大丈夫だったんですか?
  辛いことありましたよ。旅なんかに行って、みんなと一緒に飯を食うというのが恥ずかしくて、最初はこうやって(左手で顔を隠しながら)食ってたです(爆笑)。
高田 ハナさんなんかびっくりしたでしょうね。リーダーとしては。何で顔隠して食べてるんだろうって。
  「おいおい。何だ、何だ」って。そんなに驚くようなもんじゃないと思ってたんですけどね。


 わかるなあ。


 わたしも人と飯を食うというのが、何か恥ずかしい。特に慣れていない人と飯を食うときは苦痛に近いものがある。さすがに顔を隠しながら食べる(発想がサングラスの一件と同じだ)、なんてことはないが。


 こういう恥ずかしさというのは、たぶん、同じような感覚を持ち合わせている人同士じゃないとわからないと思う。
 ハナ肇はあまり恥ずかしがり屋ではなかったろうから、もしかするとクレージーで一緒に仕事しながらも、ずっと谷啓のことを理解できなかったのではないか。


  なんかね。それからトイレへ行くという行為が非常に恥ずかしくて、それがクレージーのメンバーにバレちゃって、こっちがなにげなくスッと行こうとすると、みんながソーッとついてきたりなんかするんですよ(爆笑)。
高田 どういう風にするんだろうって(笑)。
  『おとなの漫画』のリハーサルしてるときなんか、リハーサルを地下一階でしてて本番のスタジオが一階なんで、トイレへ行くにも、地下や一階はメンバーに会うから危ないというんで、二階か三階に行く(笑)。


 この感覚もわかる。何だか、小学生みたいだが。


高田 そんなに緊張感もたなくても、トイレ一つで。メンバーじゃないですか。じゃあ、あいつウンコしてるって思われるのもヤなんですね。
  絶対にね。
高田 「俺はしないよ」って顔したい。
  ええ。「まだ、そんなものしてるの?」っていう感じで。
高田 「遅れてるね」と(笑)。
  ええ。


 これもわかるなあ。


 わたしは、最近でこそあまり気にしなくなったが、谷啓の言うようなウンコ・コンプレックスをぬぐうまで、三十年くらいかかった。


 くだくだと、わかるわかるわかる、と書いてきたが、わかんない人には何言ってんだか全然わかんなかったろう。


 こういうことというのは理屈ではちょっと説明できない。同じような感情の湧き方がお互いの中にあり、共感して、初めてわかるのだと思う。


 谷啓とは、いろいろわかりあえる部分があるように感じる。


 しかし、実際に会ったとしても、恥ずかしさについての話を始めた途端、たぶん、お互い猛烈に恥かしくなって、顔を赤くしながら黙ってしまうだろう。

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「今日の嘘八百」


嘘六百二 今、真っ赤になりながら、これを書いてます。