説明ボタン

 ボタン――服のほうのではなく、スイッチのほうのやつ――というのは、あれでなかなかオソロしい。


 ウェブでは、アホみたいにボタンを押す。1時間、インターネットをやるなら、1時間、我々はボタンを押し続けているのではないか。


 アホみたいに押すと言っても、こういうことではない。



アホみたいにボタンを押す。


 でまあ、ほとんど習慣的に押すようになっているものだから、ソフトウェアやサービスの利用規約などもきちんと読まずに、「ハイハイ、例のアレね。ハイハイ」と「承諾する」のボタンを押してしまう。


「死後、乙の魂を甲に譲り渡すこととする」などと書いてあったらどうするつもりなのだろう。


 別の種類のものだが、博物館や展望台、お城やなんかにある説明ボタン。あれもオソロしい。


 たいていは台の上に、安っぽい半透明のプラスチックのボタンが、ただ置いてある。


 でまあ、博物館や展望台、お城やなんかにいるときというのは、なぜだかぼんやりしている。ついうっかり、「そこにボタンがあるから」というだけの理由で説明ボタンを押してしまう。


 すると、女性の、やわらかな口調ではあるが「これはお仕事です。アナタと個人的な話をするつもりは一切アリマセン」というしっかり一線を引いたトーンのナレーションで、「現在の○○城は昭和○○年、古くからの城下町○○市の復興を目的として市と地元の有志が協力し〜」などと、聴いているこちら側にとっては実にどうでもいい話を始めたりする。


 いや、たとえ興味のある話であっても、ボタンの前にただ立って、あのナレーションを聞いているというのは、猛烈に恥ずかしい。自分が間抜けになったような心持ちがする。
 内心、「これは困ったことになったぞ」と思う。


 また、あの手の説明というのはやたらと長い。恥ずかしいものだから、半分と頭に入らない。


 かといって、ボタンの前から逃げ出すと、背後の無人の空間に、女性の「○○市は昭和○○年、空襲にあい〜」などという説明が虚しく響く。
 何か、取り返しのつかないことをしてしまった気になる。悪事をしでかして逃げるときというのは、ああいう心持ちなのではないか。


 己の犯してしまった過ちを、女性のナレーションを聞きながら、その場にじっと立ち続けて全身で受け止めることで償うか、それとも罪の意識にさいなまれながら罰の苦痛から逃げ出すか。説明ボタンを押した後、人間はキビしい切所に立たされるのである。

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「今日の嘘八百」


嘘五百八十八 過ちとは過ぎてしまったことナリ。