空気を読む

 空気を読む、という行為があって、常識的社会人にはこれができることが求められる。
 空気を読めないやつ、というのはしばしば馬鹿にされたり、迷惑がられたりする。


 例えば、午後の会議が部長の無駄な自慢話もあって長引いて、結論が出ないまま夜となり、全員疲れてきて、「早く帰りたいなあ」的ムードが支配的になってきたとする。
 部長ですらも、自ら会議を長引かせる原因を作っておきながら、終わらせたい様子がアリアリだ。


 そこで、中堅社員あたりが「えー、いろいろと問題点が明らかになりましたので、今日のところは、それぞれ問題点を持ち帰って……」と、意を体した提案をし、全員ホッとする。


 ところが、中には「いや、まだ全員が把握していない問題点もあります。これだけの人数が集まれることはなかなかないですから、この際、結論をきちんと出しましょう」と、正論だけれども、聞いただけで疲れる意見を出すやつがいる。こういうのが「空気を読めないやつ」と評される。


 もっとも、空気を読めないわけではなくて、あえて空気を読まないやつというのもいるかもしれない。そういうのは、何か見どころがあるような気もする。


 空気を読んだとして、じゃあ、読んだ後でどうするか、という問題もある。


 空気に従うか、逆らうか。次のような場合はどうすればいいのだろう。


 例えば、飲み会で、血液型の話で盛り上がったとする。


 わたしは血液型による性格判断はデタラメだと思っている。統計をとってみても、特に血液型と性格の関連は見いだせないそうだ。


 そんなふうに思っている場合、飲み会の席ではどういう態度をとればいいのだろうか。


 親しい間柄なら「あんなの嘘だよ、バーカ」と言えるのだが、さほど親しくない場合は難しい。
 せっかく盛り上がっている場をシラケさせることになりかねねい。


 何となくヘラヘラ笑いながら黙っている、という手もあるのだが、「稲本さんは何型ですか」と訊いてくるやつがいるから困る。


 答えると、きゃつらは勝手にわたしの性格の話で盛り上がる。
 そうなると、「かもねえ」などとウツロな目をしているのも、遠回しに水をさしているようで気が引ける。
 かといって、話を合わせるのは苦痛だ。悪事に荷担しているような気になる。


 裁判で地動説を否定した後で、「それでも地球は動く」とつぶやいたガリレオの気持ち、オレにはよくわかるぜ。


 空気を読むのはいいとして、空気に合わせるかどうか、という判断は、なかなか難しい。


 そういうことがあるから、若い娘さん達(娘はたいてい若いが)は「本当の自分」とか言い出したくなるのだろう。
 ま、空気に合わせているのも、本当の自分なんだけどね。

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「今日の嘘八百」


嘘五百九 ガリレオも地動説を否定するときには、だいぶ空気を読んだらしい。