若い頃――二十代の頃だろうか、クラシックを毛嫌いしていた時期がある。
今は気に入った曲は聴くようになったが、それでもどこかに抵抗感が残っている。
自分の井戸の中を覗いてみると(これがまた浅いんだわ)、ひとつには、エラソーだ、という理由があるようだ。
小学校だったか、中学校だったかの音楽室に、クラシックの作曲家の肖像画が麗々しくかけてあった。ちょうど、田舎の豪家の広間に、先祖の肖像写真が並べてあるように。
ベートーベンやモーツァルトはもちろん、ドボルザーク、メンデルスゾーン、あるいはビゼー、グリークなんていうややマイナーどころもあったと記憶している。
今でもクラシックを聴くと学校の机に座らされているような気分になるのは、ああいうもののせいもあるのかもしれない。
もう少し文化意識にまつわる理由もあって、前にも書いたけれども、バッハを「音楽の父」と呼ぶ感覚も、ちょっとどうかしていると思う。
それじゃあ、バッハは佐渡おけさの父なのか、とこうも言いたくなる。
これは、バッハの音楽的な凄さとは別の話だ。
寿司とムニエルのどっちが上か、なんて不毛な議論だと思うのだけどねえ。
あるいは、日本画と西洋画の、影響関係や技法の違いを語ることには意味があると思うけれども、価値を比較するなんて馬鹿げている。
クラシックの曲は複雑な構造と理論上の「正しさ」を備えているものが多い(らしい)。
で、その構造や理論を視点にして、他の音楽も取り上げれば、それはクラシックが勝つに決まっている。
野球チームが、セパタクローの選手達を連れてきて野球の試合をやれば、まず野球チームが勝つだろう。
また、構造が複雑だから、あるいは理論を記すと長い本になるから、その音楽は偉い、というわけでもない。
――しかし、まあ、クラシックの悪口を書くと、気持ちいい。暗いヨロコビを味わえる。ウヒヒヒヒ。積年の怨みをはらしている気分だ。
本当はクラシックが悪いわけではなくて、まわりの赤シャツが気に食わねえ、ってとこだろうけど。
例えば、今、わたしがアフガニスタンの民族音楽をいきなり聞かされても、たぶん、あまりよくわからないだろう。
しかし、その民族音楽を演奏している人達、あるいは慣れ親しんでいる人達は、自分の内側で何か音楽的体験をしているはずだ。
今までアフガニスタンの民族音楽を聞いたことのないわたしは、その人達の内側に起きる音楽的体験までなかなかたどりつけない、というだけのことであって、たどりつけないからといって「アフガニスタンの民族音楽はダメだね、低いね」と決めてしまうのはもちろん、間違っている。
ジャズピアニストの山下洋輔と、NHK交響楽団のオーボエ奏者、茂木大輔との対談より(「音楽 秘 講座」山下洋輔対談集、新潮社、ISBN:4103437049)。
山下 (略)クラシックのオーケストラという音楽のあり方は、一番変と言えば変ですよね。普通、人間というのは、ほっておいたらああいう音楽はしませんよね。太鼓をたたいて笛を吹いて踊りを踊って、センター音一つで何かやってという方が多いと思うんですが、あんなにいろいろなところから集めた楽器を、百人近い人間が一緒に、紙に書いた記号見て鳴らす。その一人一人に現場での二十年の訓練が必要(笑)。
茂木 完全に奇形ですよね。
山下 だからこそすごいと思うんですよね。
(中略)
茂木 貴族社会から生まれたものなんだろうな。貴族社会でたくさんの人が一人に奉仕するという図式があって、お城というものはたった一人の王様のものなのに、いろいろな人が働いていて、音楽もたくさんの楽士がいてその王様に聴かせる。
(中略)
完備された、すごくいいシステムなので、楽譜、データさえ与えれば、ソフトウェアとしては非常によく機能する。だから、みんながそれで音楽を作った一時期というのがあったんでしょうけれども、もうさすがに、これから先は……。
この2人、相対的というんだろうか、いったん引いたところから音楽を見てみて、その地点からクラシックのオーケストラ(とその素晴らしさ)について語っている。
物のわかった人の態度だと思う。
とかなんとか書いてきたけど、わたしがクラシックを敬遠してしまう理由って、一番は、じっと座って聴いてなきゃいけない雰囲気がある、ということだったりして。アグラかいて聴いたら怒られそうで。
ガキの時分から落ち着きのない人間で、じっと椅子に座っているというのが苦悶なのよね。
長々、もっともらしいことを書いてきて、実はそんだけのことだったりして。
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「今日の嘘八百」
嘘四百七十八 まあ、でも、何だかんだ言って、音楽の頂点は都々逸だよな。