異常な空間と時間の芸術

 ここ5年ほどはクラシック音楽も聞くようになった。


 以前は食わず嫌いというか、意地のようなところもあって(誰に対する意地なのか自分でもよくわからぬが)、遠ざけていた。
 今も大好きというほどではないし、どこかに抵抗感も残っているのだが、妙に聞きたい気分になるときがある。


 しかし、特にオーケストラによるものを聞いていて思うのだが、世界の音楽というものの中で考えると、アレ、かなり特殊な音楽ではなかろうか。


 山下洋輔茂木大輔が、何かの対談でこんな話をしていたと思う。あれだけの大人数が一堂に会し、しかもひとりひとりが数十年間、血のにじむような修練を積んで初めて成立する音楽というのは、ほとんど奇形ではないか、と。


 わたしもそう思う。いや、奇形だからいかん、というわけではもちろん、ない。


 クラシック音楽のオーケストラでは、数十人の集団が、非常に厳密な調律とテンポ、リズムを保って、数十分の曲を奏でる。


 わたしは、世界中の音楽に詳しいわけではないが、聞いた範囲では、クラシック音楽以外のどの音楽も、もう少し音程やリズムのブレを許容するように思う。


 さらには、オーケストラでは、演奏中、基本的に誰も表情を変えない。


 第一バイオリンの左から三番目、手前から二番目の人物が、演奏しているうちに急にウレシくなってしまい、「パラミ〜ヤ〜!」と椅子の上に立ち上がって、喜色満面、尻を振りながら演奏する、なんてことは絶対ない。
 もちろん、泣きながら演奏するのもいけない。ミスっても、しかめっ面すら許されない。感極まっても、眉ひとつ動かしてはいけない。


 これ、音楽としてはかなり特殊な状況だと思う。全員でひたすら我慢しているのである。


 出物腫れ物所嫌わずと言うが、オーケストラの皆さんは出物腫れ物をどう処理しているのだろうか。いや、急に下卑た話になり、申し訳ないが。


 どんなに美しい演奏であっても、楽団員のクシャミ一発で台無しであろう。


 もちろん、それはピアノの演奏でも、浄瑠璃の語りでも同じだが、オーケストラは数十人である。
 普通に考えれば、それだけ、クシャン、や、プス、などの出る確率は高まると思うのだが。しかも、彼らのいる空間は、音楽を除けば、恐るべき静寂が保たれているのだ。


 あ、演奏会では客も我慢しているのか。


 交響曲なら数十分間、楽団員数十人と聴衆数百人が、咳もクシャミも屁も、全員が我慢して、ある音空間に参加している。
 これ、やはり、異常な状況だと思うのだがなー。