耳の痛い話

 しかし、出たとこ勝負だっ! などと、いい気でいていいのか、と考えることも、まあ、ないではない。


 茂木大輔というNHK交響楽団オーボエ奏者がいる。N響のテレビ放送で、ちょび髭の顔がよく映る。
 エッセイも書いていて、文体は山下洋輔の影響を受けており、わたしは勝手に親近感を抱いている。


「オーケストラは素敵だ オーボエ吹きの修行帖」(茂木大輔著、中公文庫、ISBN:4122047366)にこんな一節がある。


 若い頃の茂木大輔が、バッハ・コレギウムという管弦楽団のスイス演奏旅行に参加する。旅行中、ヘダ・ロトヴァイラーという女流オーボエ奏者にテッテー的にしごかれ、ノイローゼになるが――。


 以下、少々長くなるが、引用。


 今もし、「あのときのおれ」が、おれの仕事のパートナーとして現れたら、おれはヘダがあのとき見いだしたと同じくらいの問題点を、すぐさま「彼」のなかに見付けるだろう。楽屋で関係ない曲をでっかい音でさらい(聞かせたいのだ)、チューニングもせずにぱらぱらと意味のない音を出し、体をやたらにゆすり、指揮のマネをし、大きく指を折って勘定する。まったくあたりを聞いていず、自分の音程やタイミングが完璧に合った経験そのものがないものだから合っていないことにすら気付いていない。


 この後が、耳が痛い。


 もっとやばいのは、「仕事なんか、その場でできる範囲で、適当にやっときゃいいんだ、本番のノリが大事なんだから、うるさいこといって神経とられちゃダメだ」という、おそろしい考え方が染み込んでしまっていることだった。自分の経験したことだけがすべてだと思い込んでいて、それより高い水準の要求はみんな理不尽に思えてしまう。


 うー、耳鼻科はどこだ。


 音楽であれ、文章であれ、あるいは他の仕事でもそうかもしらんが、基礎的な力というのは大切だ。
 特にその場でのとっさの対応が必要なものほど、基礎的なテクニック、心構え、引き出しの数に左右される。志ん生を聞くと、そのことがよくわかる。


 思いつきの小手先でちょちょちょっ、とやるものは、しょせん、それだけのものでしかない。
 たとえ、一度や二度、うまくいくことがたまたまあったとしても、それはバクチで言うビギナーズ・ラックであって、調子に乗っているとスッテンテンで簀巻きにされるのがオチである。


 人間、自分に対する言い訳は得意なものだし。


 ――なんぞと、人に向かってエラソーに書くことはできるのだけれども、じゃあ、おまえはどうなのだ、オォーッ?! と訊かれると、シィマセンと言うほかない。


 出たとこ勝負と書かれた紙を裏返すと、そこには、その場しのぎという言葉があった。アタタタ。

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「今日の嘘八百」


嘘三百三 物心ついた瞬間に自己が実現してしまいました。


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